2008年11月17日

良い支援?あるいは永山のハーレーダヴィッドソン*

この人(たち)にと思い、お願いして書いてもらい、想いかなってできあがった本で、何度も原稿もゲラも読んでいるのに、本となって手許に届いて、家に帰る地下鉄の車中で読んで、少し泣いた。

その『良い支援?』の寺本晃久さんの「まえがき」にこうある。

「ぼくたちは、既存の知的障害者福祉(つまりハコを前提とすること)ではなく、自立生活運動の延長にある支援・介助とも重なり/けれども必ずしも同じではないような『何か』を打ち立てられないかと考えています」

本当にそうだよなーと、あらためて色々と思い、感じ、ツーンときたのである。
この本は、その「何か」をひたすら(考えるだけにとどまらず)現実のものにしようとしてきた人たちの、「やってきたこと」「やっていること」そして「わからないこと」のくるおしくも真摯な営みと思索の記録なのだ。

そして、この本は、一方で本当のこと、言うべきことをすっきりとはっきりと言っている。やはり寺本さんの「あとがき」から。

「自立できないのは、『できること』が過度に本人に求められているからだ。まわりに支援があること、行政や家族の側面的・財政的支援があること。それらをつなぐ人・支援があることが重要だ。ただそれだけだ。その上で、様々な支援技法が役に立つことがある、という順番であって、その逆ではない」

「…ぼくらの目の前にいる人たちとこれからも歩いていきたい、でも一緒に歩いていくためにどうすればいいんだろうかということを、『だらだらしつつ、でも緊張感を持ちながら』考え続けていきたい」と締めくくられているこの本、知的・自閉の支援のことを書いて、何か大事な普遍にたどり着いていると思います。必ず読んでください!

*筆者の一人、岡部耕典さん(ちなみに『良い支援?』のカバー画は岡部さんの息子さん、亮佑さんの作品です)が、何度も編集会議をもたせていただいた永山の「たこの木クラブ」に、一度だけハーレーに乗って現われたというだけなのだが、なかなか格好良かったのである(後日「ハーレーは単気筒でズーンと響くいい音ですね」と言ったら、心の底から軽蔑されてしまった…ハーレーは2ストロークなのでした)。それにしても、「たこの木」にはよく通わせていただいた。2007年の6月、広島で寺本さんがやろうと言ってくださってから、一年半。感無量と言ってこれほどの本はない。

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2008年10月27日

テレビをはずして

ちょっとした事情と思い付きから、部屋のテレビをはずしてブラウン管にTシャツをかけて隠してしまった。別にテレビを毛嫌いしているわけではなく、これから先もずっと見ないわけではない。チョット仕舞ってみた。
世間の一定の数の人たちと同じぐらいには、野球というゲームが好きなので、ポストシーズンの試合をテレビではなくラジオで聴いたりしている。これはあまり面白くない。ラジオをつけてみると、存外、ニュース系の番組が少ないが、好きな演芸番組はテレビよりずっと多い(テレビは演芸ではなく、バラエティ―あれがバラエティなのかは別として―をやっているだけ)。浪曲や講談、粋曲なんてのもかかったりする。爛漫ラジオ寄席なんか何年ぶりで聞いたろうか。

必然、音はよく聴くようになる。そんな折、数少ない遊び仲間から(仕事ももちろんいいのを一緒にやります)、ナターシャの「宵々山ライブ」(第一回の単発もの、その後の「宵々山」もBOXで出ていたが、私は持っていないし、もちろん今は廃盤)と「フィールドフォーク1・2」が紙ジャケで再発されたとのメールを貰った。LPでは持っているが、聞くとほしくなる。岡林さんの再発ラッシュなどはともかく、ナターシャのこっちからの再発は意外だった。「お地蔵さん」や「107」を再発する前にこっちかという感じである。宵々山は、とうとうナターシャのメンバーが揃っている時には行けなかった。今はもう行く気はしない。なんとなくだが、永さん(永さん自体は好きだけど)と高石さんが一緒に色々と仕掛け始めてから、ナターシャはつまらなくなったような気がする(木田さんが亡くなったのは本当に痛かった)。
少なくとも、私にとって、107やフィールドフォークをやっている頃のナターシャは、大好きなチームだった。「お地蔵さん」の前に、1971年に作られた「序」というタイトルの当初はお蔵入りだったアルバムがあって、2000年になぜかこっそりひっそりとCDで出ている。メンバーは高石、城田に金海たかひろ、そして、高石とし子さんが参加。木田さんや、しょうごさんが入ってからの完成度はないけれど、ナターシャが何を目指していたかのエッセンスはとても強く出ているように思う。逃げるようにアメリカにわたり、そして名田庄村に行き着いた高石さんは、この「序」のジャケットで、最近コーラを一気飲みしてゲップをする芸でちょっと売れた芸人さんそっくりのロンゲのカニみたいな姿で写っているのだが、今のマラソンおじさんよりは間違いなくかっこいい。

70年代はじめ、私はナターシャを聴いて、ウディ・ガスリーやジャック・エリオットを後付で知った。そこから色んなところへ後は自分で行けばよかった。
昨日、旅先から帰ってきて、ウディ・ガスリーの“A Legendary Performer”を久しぶりで聴いた。単調と言えばこれほど単調なメロディーラインのアルバムもない。でも、ウィスキーのボトル一本ぐらいは呑めてしまうアルバムだ。30年代の恐慌の時代を唄ったこのアルバムに残されているのは、プロテストではなくトピカルの唄だと思う。だけれどその唄は、今のこの時代にそのまま持ってきて、通じる意味内容をもっている。トピカルの唄を、自分の立ち位置からしつこく唄っていく、そうすれば何か残る。というのは、他のことにも言えたりすることではないか、そんなことを思ったりした。

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2008年10月03日

オレハアナタタチニナンカダイヒョウシテホシクナイ

岸信介が、往時、日本敗戦後の艱難の中を生きる、在米日系人に対し言い放った言葉を、たまたま見ていたNKH教育TVの番組で聞いた。
それは、在米日系人が、日米の溝を埋める存在となりうるかということについてだったが、岸はこう語ったという。
「日本で政治家なりえたのはみな華族なり武士の出である。移民は経済的落伍者であって、日本の立場を代表できない」

そして麻生太郎氏は……。
――「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが政党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。――
こう書いてある、魚住昭さんの『野中広務 差別と権力』を、週間朝日誌上で評して、永江朗さんが、重版を重ね文庫にもなっているこの本のこの記述に対し、未だに麻生氏側が何の訴えもせぬということは、麻生の差別発言はまぎれもない事実だろうし、だとすれば麻生太郎を総理として認めるわけには断じていかない、といった趣旨のことを書いておられた。
「118年になんなんとする、憲政の大河」だかなんだか知らないが、こんな人たちが総理だ宰相だと持ち上げられキャーキャー騒がれて、本当にいいんだろうか。失言でも放言でもなく、彼らなりの、揺るぎないそしてとんでもない本音であり資質であろうに、なぜ大手のジャーナリズムはこうした根本的な問題をとり上げないのだろう。

岸の孫とか、吉田の孫とかいって、「きみたちとはもとが違う」とかなんとか思っているんだろうが、
<オレダッテソンナクダラナイヒトタチノナカマナンカジャゼッタイニナイシ、ダイヒョウサレタライヤダ>

とまあ、久しぶりに少しむかっ腹がたちましたが、それはさて措いて、新刊が出ました。
山下幸子さんの『「健常」であることを見つめる』、70年代、青い芝やグループゴリラで何が生み出され、何が問題となり、そして80年代以降に引き継がれ、くり返し悩みとなり、語られ行動されてきたこととは何か。山下さんの生真面目さがとてもいい形で結実した、読み応えのある本です。「緊急あぴいる」をはじめ、当時の貴重な資料も巻末に収録しています。今月10日までには書店に並びます。是非ご一読を!

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2008年09月08日

函館から名古屋、名古屋から京都、京都から大阪ぁーっ!*

今年も秋の行商シーズンが始まり、あちらこちらへ出かけている。まだ何箱もの荷物を送りつけるほどの出版点数でもなく、規格では一番大きなダンボール一箱に詰め込めるだけ本を詰め込んでキャリーに括りつけ、飛行機だろうが新幹線だろうが夜行バスだろうが、何にでも乗り、どこにでも行く。そんな、旅日記から……。

某月某日 函館の某大学で開催された研究者の方々のお勉強合宿に参加。行きの飛行機は安い切符だと一番早い便しかなく、受付時間の4時間以上前に会場に着いてしまった。涼しいはずの函館は蒸し暑く、路線バスは省エネだとかで冷房がほとんど効いていなかったが、丘のてっぺんの大学は無機質な建築の質感が心地よい。本を売りながら研究報告を2日間、みっちりと聞かせていただく。ある先生の報告を聞いていて、障害をもつ子の「親」であるからこその理論構成だなあと強く感じたということがあった(なんのこっちゃかこれではわからないが、まあいいのである)。2日目の夜は、東京でいつも遊んでいる人と1時過ぎまで呑んだ。何も函館まで来ていつもの2人でと思われるかもしれないが、やっぱり気の合う人と呑むのはストレスが少なくていい。夜景は見にいかずに翌日帰京。

某月某日 北から帰ってきた翌日、東京某所で柄にもなく人前でお話。「『母よ!殺すな』復刊の意味」といったことを10名ほどの参加者の前でお話する。案の定、グダグダになってしまったが、熱意だけは伝わった(と思いたい)のか、講義終了後本が4冊ほど売れた。横塚さんの精神的高み、スピリチュアルな部分を言われたかたもいたが、私としては横塚さんの、(あえて)リアリストとして余計な部分を削ぎ落とした理屈立てに魅力を感じていてというお話をした。なぜか、大仏坊さんと歎異抄云々のあたりは、あまり興味がない。呑み会も講師はタダという言葉に甘えて、けれど量をセーブという奥ゆかしさはなく、ビールのあとホッピーを3杯ほど。気がつけば終電だった。

某月某日 久しぶりで名古屋へ。初日と2日目午前はとある学会。2日目午後は別の研究会。その2日目午後の研究会で、関西青い芝の中心を担った方と、パートナーであり、当時、健全者運動を立ち上げた方とにお会いする機会を得た。もちろん研究会の内容も素晴らしかったし、無理をお願いして会終了後の食事会にも入れていただき、「一度遊びにおいで」とも言っていただいた(本当にいずれ伺うつもり)。「始めて・続け・止めない」というのは大変なことだと、あらためて思った。学会のほうでも幾人かのかたから、企画のお話もあり、交通費を越える売り上げもあって充実の名古屋行きだった(心残りは、在来線何番ホームだったかの端っこにある立ち喰いのきし麺が食べられなかったことぐらい)。

そして今週末は関西へ。旅はまだまだ続きます。


*加川良『フォーク・シンガー』風に読まれたし

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2008年08月11日

長い階段の上と下

たまたま読んでいたレオン・トロツキーの『レーニン』(光文社文庫版)で、トロツキーが自分のことをこう語っている箇所がある。
「私は街並みや家の配置に関しては覚えるのが非常に苦手である。たとえば、ロンドンでは、レーニンのアパートと私のアパートとのあいだの比較的短い距離でさえ何度も道に迷った。かつては人の顔を覚えるのも苦手であったが、この点に関してはその後大いに進歩が見られた。その代わり、思想やその結合、思想的内容の会話に関しては非常に記憶力がよかったし、今もそうだ」
違う箇所では、
「いつものように、私が一人で自分のアパートに帰り着くことができるかどうかという冗談を言った。というのは、私は道を覚えるのが非常に苦手だったからである。何事も体系化するのが好きであった私は、この自分の特質を『地形学的クレチン病』と命名した」

今日、その単著『スルーできない脳ーー自閉は情報の便秘です』を無事校了させていただいたニキリンコさん。彼女と話したり、書き物を読んだりしていると、こう自分自身を書いているトロツキーっていう人もずいぶんと偏差の強い人だったのだなあ、と思ったりしたのだった。

それはともかく、ニキさんである。はじめてお会いした頃、ニキさんとの距離(物理的な意味でも、親しさの意味でも)は遠かった。何人かで会議をしていても、ニキさんはいつも部屋の隅の、誰からも一定程度離れた場所に身を置いていた気がする。その後、何度かお話しをすることはあったが、そう簡単に距離は縮まらなかった。

あれはDPIの世界大会が日本であったときだったろうか。偶然お会いしたのだったか、そうでなかったのか、長い階段のてっぺんにニキさんがいて、底に私がいて、存外長い時間、しゃべった。あのときに、私の勝手な思い込みでは、距離が(物理的な距離はかなり長い階段だったのでそう縮まっていないが)それまでとは少し違うものになったように思う。

それから、仕事の話がもちろん中心だけれど、飯を食べたり酒をご一緒したり、ニキさんのどちら側に座れば彼女のストレスが少ないか、百合のような匂いの強いものは苦手であることなどなど、ぼちぼちと知るようにもなり、実はそんなに人付き合いが得意でない私にとっても、ストレスが少なく話せる仕事仲間になった。くだらないオヤジギャグも平気でぶつける始末とあいなり、くよくよしていたりすると、まあまあとなぐさめてもらったりもした。

そのニキさんの単著をようやく出すことができる。456ページ、全篇書下ろしである。これまで、主に自閉っ子を育てる親御さんや、支援者をお相手に、書き物を通してサポートしてきたニキさんだが、今回は少し違う。子供のころの自分ではなく今の自分、いろんな支援が入ってもそれでもなお残る自閉の特性、「やっかいな脳」とつきあって生きていくことの困難ともしかするとそれゆえの愉悦……。文字通りの「博覧強記の人」が存分に書ききったこの本は、定型発達の側にいる人にだって、それはたくさんのサジェスチョンを与えてくれる。

書店さん向けのチラシの惹句をこんなふうに書いた。

「今度のニキリンコはちょっと手ごわくて素敵に面白い」

今月22日出来予定。乞うご期待!

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2008年07月24日

思い出せなかった名前―木村栄文さん

先だって東京の西のほうで、在りし日の横塚晃一さんの映像を拝見する機会があった。
はからずも、その日は横塚さんの命日―恥ずかしながらその場で教えていただいて、「あっ」と思ったのだが―その日があらかじめ選ばれたのではなく、偶然そうなったとのことで、あまりそういうことは信じないのだが、「巡りあわせ」みたいなことも、少しは思った。
 
作られたのがプロのドキュメンタリー作家の方で、色々なことを教えていただいた。小川紳介さんも亡くなった、つい先ごろ、土本典昭さんも逝ってしまったなどと、お話しているうち、私が「あの人は」とお聞きしようと思って、出てこなかった名前があった。70年代、役者を使って演出してドキュメンタリーを作った方で、ドキュメンタリーといえば対象をしつこく忠実においかけてカメラを回し続けるものという、私のような素人の感覚を、叩き壊してくれた。今なら、『さようならCP』の原一男さんであれ、小川さんであれ、土本さんであれ、当然演出があり、どの作品であれ作家性が出てくるというのは、当たり前だし、それがないドキュメンタリーは逆に意味がないということは分かるのだが、なにせ、プロの役者が出てきて、というのはやはりインパクトがあった。

そのお名前は、木村栄文さん。それはもう有名な方なのだが、名前って出てこないときは、どうしたって出てこないのである。家に戻って資料を見て、ようやく思い出し、胸のつかえがおりた。
2年ほど前、NHKのETV特集でパーキンソン病になられた後も、執念で撮ろうとする姿が放映されていたが、今はどうされているのだろうか。

作品はたくさんある。『苦海浄土』、『記者ありき』、『祭りばやしが聞こえる』……。九州まで行って、RKB毎日のライブラリーでなら見ることのできる作品も僅かながらあるようだが、それにしても、木村さんのものに限らず、残され、見られるべき「映像」が本当にぞんざいに扱われている気がする。

別に、ジブリの映画が悪いとは言わないが、あんなに金かけて、みんなの頭の中を「ポニョポニョ」いわせれば、そりゃあヒットするのは当たり前で(鈴木プロデューサーってすごいと思う)、少しはこっちに金が回らないものかと、やっぱり思ってしまうのである。

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2008年07月12日

某月某日

お考えの色々な部分は措くとして、内田百痢阿川弘之といった方々のような(「断然欠席」なんて言ってみたいものだ)達意の文章で、日記やら随筆やらが書けたら、それは楽しいのだろうけれど、所詮素人、ブログ一つ書くのもママならない。企画のネタ出しをホイホイするわけにもいかず、人の悪口を垂れ流すわけにももっといかず、きれいごとだけではつまらんと思いつつも、ついつい可もなく不可もなしという線に落ち着いてしまう。ホメラレタクテケナサレタクナイのである。

というわけで、今回は某月某日で少しだけ

某月某日 久しぶりで関西へ2泊3日の出張。初日の夜はやや南におりて一番高いつまみでも500円というお店で打ち合わせ。大好きなサッポロ赤星ラガーあり。鱈子が切れていたことだけが少し残念。2日目は北へ上って研究会。東京でよく会うメンツとなぜかこちらでもご一緒。ずっと楽しみに書き物を待っている方と久しぶりで会えたので、あらためてきっちりお願いする。宴席2次会でイケソウナキカクのご提案あり。最終日の朝、いつものように、新梅田食堂街のはずれにある立ち呑み屋の朝定食を食べたのだが、トロロ飯と味噌汁だけの300円定食がなくなっていた。本当に世知辛い世の中になったものだ。これまた残念。

某月某日 首都圏もだいぶ東のとある町で打ち合わせ。それは療育や支援やケアといった枠組みでのお話だったのだが、それを生んだ思想なり対象への向き合い方なり、そういったものから離れて、あるいは、時と場合と文脈の違いも無視して、「技法」が一人歩きして、神格化してしまう。すでにその時、どういう思想のもとに育まれた技法なのか、などということは問われない。そんなことに拘泥せずに「自由」に使いまわせばいいということになり、したがって、テクニックだけを競う技術者が跋扈する。当人はそうと任じていなくても、そうなる。そのことに自覚的であるかどうか。それだけでもかなり進む道は違ってくるのだが…。そんなお話だった。なんだか違うところでもありそうなお話ではある。

某月某日 大学からの友人と終日遊ぶ。仕事もなにもまったく関係のない古くからの友人となると3、4人といったところだろうか。年に一度会うかどうかといったところだが、思えば長い付き合いだ。よく、誰も朋友、彼も朋友といって友人の数の多さを自慢する人がいるが、そんな人に限って相手はそうも思っていないような気がする。だいたい、そんなにたくさん付き合う人がいて疲れないのだろうかと思う。淋しくないかなんていって数を多く恃むような価値観を押し付けるから、そこで潰される人が出てくるのである。そんな価値意識と一緒にいる必要はない。
 いや、遊んだ話だった。本当は4人でやるテーブルゲームのはずだったのだが、なんと一人が日を間違えていてドタキャン。こうなるとなかなか知恵がないが、場所が新宿だったので、自分の好みを最優先して末広亭を提案したらのってくれた。番組は知らずに行ったのだが、中入り後膝代わり前が寿輔で、主任が鯉昇と、Kさんが一緒だったら舌なめずりしそうなメンバーである。しかも、夜の部の出のはずだった鶴光が昼に出てきてくれて大熱演というおまけつき(夜、お座敷でもついたのだろうか)。友人の一人は、はじめての寄席だったが、寿輔におおはまりで、とても喜んでくれた。


さて、今月は、会社を立ち上げて早々から動いてきた企画、『障害者の権利条約と日本』が、いよいよ公刊されます。実効性をもったものとしてどう生かしていくか、書き手も中身も望むべき最良のものになっていると思います。こうご期待!

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2008年06月20日

未明のファミレスで

先だっての土曜の深夜というか日曜の未明、荒木町でしこたま飲んだ後、タクシー代ももったいない故、事務所近くのファミレスで始発を待つことになった……。

新宿や池袋・澁谷といった大ターミナル駅近くなら大勢の人で賑わうのだろうが、終電もとうになくなった午前2時半過ぎの四谷は、タクシーで帰るか、朝まで呑めるであろう荒木町に居座るかなのだろう、一人で入ったファミレスJは閑散としている。

今更コーヒーという気にもなれず、安いワインのハーフボトルをちびちびやりながら、夜が白んでくるのを待つ。いただき物の杉田俊介さんの新刊、『無能力批評』をめくってみたりするのだが、アルコールが体中に回っていて、読むことに対してすでに力が無いのである。昼からずっと編集会議、夜はわたしのスピーチがとんでもなくスベッテしまったパーティ(パーティ自体はとても素敵なものだったが、年を追うごとに人前で話すとき心臓がバクバクする度合いが増している。9月には割りと長めの話を人前でしなくてはいけないのに大丈夫かわたしは)、そして2次会と、心身ともに疲れきっているのに、まだ酒だけは入る。一人で明け方のファミレスにいるなんていつ以来だろうと思う。と思って回りを見渡すと、ほとんどの客が単独者だ。世間はあまり金を持っていそうでなく、風采のあがらない(その場のわたしのような)単独者に冷たい。何か事件があると、とんでもなく広い範囲に話を一般化して貼り付け、「変な人」を排除しにかかる。「親の顔が見てみたい」などと、自分が言われたらどう思うだろうかというようなことを、誰もかれもがしたり顔で言い出す。それとこれとは別の話ということすらわからなくなってヒステリックになる。何が怖いといってそういった風潮が一番怖い。批判は人の口車に乗ってやってはならない、仄聞や憶測や声高な者からの強要や、そういったもので自分の言葉を固めてはいけない。自分で聞いて自分で読んで自分で考えて、たとえそれが稚拙な段階にとどまったとしても、その態度は持ち続け、稚拙だという反論があればまたそれを引き受けて考えていくしかない。

という具合に、なんの脈略もなくまとまりもなく、話がおそろしくあちらこちらに飛ぶのだが、酔いがてっぺんまで回った頭で色んなことを考える。

まあ、でも、「みんながそう言っているからきっとそうなんだ、面倒くさいからそれでいいや」は、やはりあまりよろしくないと思う。第一、少しは「そうかな」と思って考えたほうが楽しいわけだし……。

さあ、始発で帰って少し寝たら、ゲラ読んで手を入れて、愛しの著者にご送付だーっつ!


PS:なんとかゲラは無事送り出すことが出来た、その日曜の夜。酒は……やっぱり呑んだ。


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2008年06月06日

ピープルの大会でUを偲ぶのこと

5月31日〜6月1日、お台場でピープルファーストの全国大会があった。
初日の全体会は、野外・潮風公園に舞台が組まれ、多くの屋台が出て、お祭り気分、
晴れていれば海風心地よく、芝生に皆ですわったり寝転んだりだったのだが、朝からの雨。
海からの風は冷たく肌を打つ……。
と書くと、「あいにくだったね」となるのだろうが、そうでもないのだな。
誰しも覚えがあるように、野外のイベントの雨天決行って、逆に気合が入るし、
「やったぜ」の達成感が、忘れ得ない情景とともに、あとあとまで結構残ってくれるのだ。
目黒の「柿のたね」のかたも「かえって楽しかった」とおっしゃっていた。

その「柿のたね」というと、どうしてもUのことを思い出さずにはいられない。逝って、もう11年になる。
亡くなる3日前に病院に見舞い、腫れた体を見て何も言えず、暑い葬儀の日、見送って遺骨が運ばれたのが、Uが支援者として関わっていた「柿のたね」だった。
学生の頃、なぜかわたしの部屋に転がり込んでいた時期があったU。お互いにあまり色々なことが上手くいっていないころで、建設的な雰囲気とは程遠く、無為に酒ばかり呑んでいたような気がする。
そのUが、なぜ知的障害者の自立生活支援に関わるようになったのか、聞けば教えてくださるのだろうが、Uが亡くなってから年に一度「柿のたね」が中心で行なわれる追悼の席に出かけても、ただ呑むばかりで、しっかり伺ったことはない。

わたしは少し回り道をして、「Uの死」を媒介としない場でも、「柿のたね」の人たちと、こうして出会うようになった。それでも、Uが生きていて、雨の潮風公園で一緒に発泡酒でも呑めたらなと、やはり思ったりする。スピリチュアルなどというものから程遠いところにいるので、「○○はいつもそばにいる」なんてことは全く思わない。死は死でしかない。だけれども、Uのことは覚えていて、今ならどんなことをやりたいだろうかと、想像することはできる。それで、「まあまあ、俺は俺でやるか」と思ったりする。そんなものだ。


*ピープルの大会が終わった日の深夜、神奈川の綾瀬でグループホームが焼け、3人の方が亡くなった。室津滋樹さんがコメントしているように、これが自立生活への足かせとなる議論に使われては確かにまずいのだが、うーん……。

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2008年05月22日

幡ヶ谷ではない

(少しは)広くて(少しは)安く、と思い立ち、自宅を引っ越した。「幡ヶ谷? なんでそんな近いところに越したの」と聞いてきた人がいる(わたしがこれまで使っていた駅は笹塚)。わたしの滑舌(この言葉が変換できないとは知らなんだ)が悪いのがいけないのだが、それは聞き間違いというものである。

それはともかく、賃貸の住居契約の保証人ってなんで未だに「親」じゃないといけないのか。80に手が届こうという親に頼むのが、申し訳ないやら、恥ずかしいやら。ただ、この問題、わたしが恥ずかしいだけの話ではもちろん済まない。親がいない、虐待されて逃げ出してきた、障害を持っていることで囲い込まれている、「日本人」とやらじゃない……「家族」という形から抜けたり、壊したりすることで、あるいは単身者・単独者であることを自ら選んだり、選ばなくともそうであったり、そうした中で「自立」していこうとする人たちがたくさんいるのに、「家族」「保護者」という担保に社会がしばられているために、部屋すら借りられない、借りられたとしても選択の幅が思い切り狭められて、我慢して住むしかない。

社会の安寧やら、安全やらということが言われるあまり、自由度が極端に低くなる世の中っていかがなものか。誰に気兼ねすることなく、見張られることなく、気に入った棲みかに棲み、いやなことがあったりしたら、出ていってまた気に入った棲みかを探す。そんな当たり前のことが誰にも保障されてほしい。

先週末、幡ヶ谷ではないところに越して、そんなことを少し考えた。

投稿者 takahashi : 17:48 | コメント (0) | トラックバック (0)