2013年12月28日

年の終わりに八たび――見張り塔からずっと

  見張り塔からずっと王子達が見下ろしている
  女達や裸足の召使達が往来するのを
  遠い向こうから ヤマネコの鳴き声が響いてくる
  2人の馬乗りが近づいていく 風がヒューッとうなる


勝手に貼らせていただいた訳詩だけれど。今の自分の気分に一番近い気がする。
今年1年ブログをアップしていなかったことに今さらながらに気付く。
忙しかったのだろうか。確かに小さな子が一人加わって私事にはさまざまなことがあった。
小さな会社のほうも変わらずそれなりに忙しかった。
でもブログを書く気になれなかったのは、暗澹たる気分が日々強まる1年だったからだとやはり思う。

福島はいっこうに変わる兆しがない。見放されつつあることへのルサンチマンに近い憤りを社会運動の2分化に重ねてしまい、友人すら失うことになった。
暮れに年賀状の文面を考えていて、「秘密保護法制定への動きなど剣呑極まりない状況は強まり」と書いて印刷に回したらあっというまに法律は通されてしまい、訂正することもかなわなかった。
そして、少しは息継ぎをして、福島に独りいる父をこの正月もこちらに呼んで年を越そうとした矢先、モーニング姿の首相の写真が目に飛び込んできて、「孤立」と「暴走」の国にまた大きく舵がきられて年は暮れていく。その日ある方にお返事したメールに私は以下のように書いた。

「私たちが今内在的に抱えているものが、例えば今日の参拝をも許容し下支えしてしているのかもしれない。自分はそこに与していないとはもはや言えない段階に事は進んでしまったようにも思います。」

乱暴に言えば、「あんなやつと一緒にされては困る」と言っていればいいという段階を大きく超えてしまったのが、今年という1年だったような気がする。

それでも、やはりしのいでいくしかない。やれることをやっていくしかない……。そのメールの後半には以下のように書いた。

「呑気に生きたいと今も思いますが、そうもいかないようです。せめて夜、床に就くときは、どの地にあろうともどんな境遇を生きていようとも安心して眠りにおちていけるようであって欲しいと切に思いますし、そのために出来ることを私なりに僅かでも考えていくしかないと思っております。」

さあ、これから読書会に行ってきます!!

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今年1年もまた大変お世話になりました。以下15点の新刊を刊行することができました。
来年もよろしくお願いいたします。

よい年をお迎えください。

2013年に刊行した本…『自立を混乱させるのは誰か』、『支援vol.3』、『私的所有論(第2版)』、『千年災禍の海辺学』、『もうひとつの学校』、『日本における作業療法の現代史』、『生存学vol.6』、『改訂版 医療現場の保育士と障がい児者の生活支援』、『手話の社会学』、『障害学のリハビリテーション』、『司法福祉学研究13』、『障害のある子の親である私たち』、『福祉と贈与』、『腎臓病と人工透析の現代史』、『知的障害者と自立』


投稿者 takahashi : 11:30 | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年12月29日

年の終わりに七たび――母の遺影

L判の小さな母の遺影が本棚の間にむりやりねじ込んだような体で置かれていて、やや重い病にも罹患しおとなしくて少し心配していたけれど、4歳になって体力もつき一丁前の口をきくようになってきた上の子と、時々手を合わせたりしている。まあ私は彼女の子どもなので私が炊けば(炊き上がった時に私がいれば)、労働者使い捨てで評判が芳しくないが近くにはそこしかないホームセンターで買った一番安い仏さん用の飯碗に炊きあがったご飯を盛り、湯呑みに水を汲む。夏に母が逝って、もうなのかまだなのか5ヶ月が過ぎようとしている。

その間も様々なコトがあった。先月には女の子がひとり、暮らしの仲間に加わり、一方私は母が病んだのと同じ大腸のポリープを結果的には問題のないものだったが、5つも取ることになり、内心穏やかではない日々が続いた。それはひとりまた子どもがやってきたことの喜びがあるからこその、裏返しの臆病であり恐怖心だったように思う。生きたいというより死にたくないという気分が色濃かった。
娘が生まれたことで、母の生まれ変わりだねと言う人が幾人かいる。そんなことはあるまいと勿論思う。ただ、母の病が5月に分かった時、まさか11月に生まれてくる孫の顔を見ぬまま逝くとは思っていなく、その時母が真顔で「見らんにな」と言ったのに驚いた記憶がある。少しの感懐がなくはない。

来春刊行の雑誌『支援vol.3』に寄せてくださっている児玉真美さんの原稿に、母の作ったあんぽ柿にふれて下さっている箇所があり、読んで咽喉の奥の方がヒリヒリと痛んだ。2011年の2月、福島から来たその甘い柿は、会社のソファの私と児玉さんとの間の小さなテーブルに確かにあった。そのひと月後、大きな災禍が東北を襲い、そして、今、作り手は逝き、代わって作ろうと思ってもその地でその果実を使うことは未だ叶わない。

母は病を得てからなぜあんなに速く逝ってしまったのかと時々考えてみることがある。40年来の重いリウマチで、大好きな畑仕事に出ることは少なくともここ20年はなかったが、父が収穫してきた野菜や果物をキレイに整えビニール袋に小分けにし、坂下の小さな木囲いの「店」に一袋100円で売りに出せば喜んでくれる人もある。ほとんど動かなくなった手だが、ほめられもし少しは自負もあった漬物やら煮物やらを作って子どもや親戚や知り合いに配ったりもする。
そうした、誇るほどのものではないけれど、そこそこ充足した日常、それが奪われたことの鬱屈と喪失感はとても大きなものだったのではないか。そのこととあっというまに逝ってしまったこととは、全く関係がないとは言えないのではないか。そんな風につい思ってしまう。

もう2年近くが過ぎたのか、まだ1年と少ししか過ぎていないのか、どちらもとしか言いようがないのかもしれない。私は、瓦礫のことについて受け入れを「すべて」拒否する理屈には今でも違和感をもっている。ただ、真摯に考え行動に出た人を弾圧するなどということが許されるはずはなく、もう災厄などなかったことにして「列島強靱化」などと言っている連中に比して、どちらを擁護すべきかなど言うまでもないと思う。
その上でしかし、人は東北の海辺で山間で町場でそこかしこで今日のこの時も生きていることは、認められなければいけないと思う。くだらないことやだらしないことはどこにでもあって、それはそれとして批判され乗り越えられるべきだが、「ああなってもまだ云々」と前提もなしに言われると、「何も知らぬくせに」と思わず言いたくもなる。
どこに行っても生きていけるではないかということが、東北の封建制みたようなこととセットで言われる。私もそうして逃げてきた人間なので、一面ではその通りだと思う一方、なぜ残るのかそれどころか海辺にすら戻ろうとするのか、そのことをその地で生きてきた者の身になって考えたことはまずあるまいとも思う。時がある程度刻まれてようやく言えたり考えたりできることもある。小社も来年は震災のことに向き合ってみようと思う。

色々なことがある。自助自立だと言いつのりはては国防軍だ国の誇りだという人たちが、権力の中枢に座るという事態になった。恐怖を煽る政治で差別と排除の意識がさまざまなレヴェルで拡がって、これからのしばらくは、今までもそうだったがそれにもましてとても生きにくい時代になるような気がする。ならば、だからこそ、抵抗する理屈を紡ぎ実践につなげていかなくてはならない。

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昨日、『生の技法(第3版)』の見本ができてきました。たぶんこうしたことが、版元の私にとってやるべきことできることだろうと思います。来年もまた、あきらめず、できることならなるべくは楽しく、仕事をしていこうと思います。

独居となった父が年越しをこちらで過ごすために今日福島から出てきます。これから迎えに出ようと思います。

良い年をお迎えくださいますように。そして来年も変わらぬご支援を!

投稿者 takahashi : 09:00 | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年06月29日

半年が過ぎて

ブログを1月に書いて以来もう半年が過ぎようとしている。ここ数年の間で私事がこれほど集中して動いた日々はなかった。
子どもが川崎病に罹患して10日間の入院となったこと。30年来重いリウマチで苦しみぬいてきた福島の母が別の病を得てしまったこと。ザワザワとした日々が続いたし、続いている。

そして世の中は……震災のことについては、すっかりとは言わないが忘れつつあるあるいは忘れようとしている人たちと、極端に言えば「フクシマ」と原発に関わることにのみ非常に強い関心を持ち続けている人たちと、そのどちらでもないまだ先の何も見えぬむしろ絶望だけが強まる震災後のただ中を生きる現地を中心とした人たちとに、分かれつつあるように見える。もちろんその狭間で支援に入り続け考え続けているたくさんの方々がいることは承知しているが、大きくはその三者に分かれ、もはや近づきあおうともしない。できない。

放射能に関わっての「いのち」のことはたくさんたくさん言われ続けているのに、尊厳死や臓器移植や死刑制度のことに関わっての「いのち」のことになると、途端にその声は弱くなり、「命のリレー」などといった繰り返し使われてきた「美談」が紙面で踊り、「役に立つ死」への強迫を世の中あげてやっている。「死をもってしか償えぬ罪」という言葉に何の疑念をもつこともない……この乖離はなんなのだろうと思う。実は、私たちは「いのち」のことではなく「恐怖」のことを語ってきただけなのではないか。「いのち」のことではなく「良い死」のことを語ってきただけなのではないか。それを糊塗するために「いのち」という言葉を使ってきたということは本当になかっただろうか。もう一度考えてみても良いのではないかと思う。

過敏になっているのかもしれない。ひねくれているだけなのかもしれない。でも、「実はこのことが〇〇を救うことにもなる。だからこそそう言っている」といった言い方や、「福島から世界へ!」とキレイに纏め上げられたメッセージなどに、まだ慣れないし乗れない。おためごかし、利用主義といったフレーズがどうしても頭をかすめてしまう。何度も何度もそう思わざるを得ない言葉に刺され続けていると、その慣れない乗れない気持ちを冷静に伝えようと思っても、正直萎えてしまう(という人もけっこう存在するのではないか)。

これが、このところの私の偽らざる実感です。

投稿者 takahashi : 15:55 | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年01月30日

年のはじめに2012 福島のことおさらい

毎年1月のブログは「年のはじめに〇〇〇〇」と名付けて、割に希望に満ちた(自分にとってのだが)話を書いたり本の宣伝をしたりしていたのだが、今年はやはりそういうわけにもいかない。

この10ヶ月近く、私はしつこいぐらいにブログやツイッターで、「3.11」を世界を変える契機にという言い方や、「フクシマ」というカタカナ表記や、避難せずに残り暮らすことを選んだ人たちへの世間のまなざし、そうしたものへの違和感を(恨み言を巻き散らかしていると言われればそうかもしれない)表出してきた。なぜ繰り返し繰り返しそうしてきたのか。もう一度だけおさらいしてみようと思う。

私は、30年以上も前、19の春に、大学に進学することで福島の当時は伊達郡だった、谷間の過疎の村、月舘から逃げてきた。したがって私がこの間つぶやいてきた対象は福島の中でも伊達市や伊達郡や福島市といった地域になる。原発立地地域や逆に会津地方などはまた違う問題を持つだろう。どういう立場から論じるにせよ、いっしょくたにすることは良くないだろうとは思う。

私が生まれ育った地域は家父長制ベースの農村社会であり、そうしたコミュニティのもつ閉鎖性は、たとえばこの間の避難所などでの性別役割の強要といった問題の温床になっていたと言えるかもしれない。コミュニティ再建というなら、「復古」ではなく、さまざまあるそうした負の側面を解消する方向でなくてはならない。そこまではいい。まったく異論はない。
ただ、そのこととは別に、「あぶないなぜ逃げない」「新天地でいきいき暮らせばいい」「瓦礫はダメだが人は受け入れる」という世間の声の中に、「あんな過疎の村にずっと暮らしたいなんて本当に思っているのか」「汚れた土地にしがみつくなんて気がしれない」という気分が透けて見えるように(私には)思われるのだ。そこで顔に皺を刻み腰が曲がっても畑にでるのを楽しみに「現実に暮らしてきた/いる」人たちの顔を見ようとしない。敬意がほとんどと言っていいほど感じられない。人の暮らしってそんなに軽いものではない。
逃げてはいったが、盆暮れには帰省する人たちもたくさんいて、小学も高学年になれば長い休みにひとりで遊びにくる孫もいるかもしれない。ふだんは顔を見られなくても気にはかけていて、電話もたまにはする。新米がとれたら真っ先に贈るし、あっちのマチからも誕生日だかには花なんかが贈られてくる。そんな事柄も組み込んで、「過疎の村」の日常はけっこうしっかりとまあまあ楽しく回ってきた。そのことを本当に理解してあなたたちは言っているのか。それが私の苛立ちのたぶんほとんどすべてかもしれない。

そうした息が詰まるコミュニティから逃げてきたんでしょあなたは。なぜ今頃になって持ち上げるの、と言われるかもしれない。後ろめたさはあるが、持ち上げているつもりはない。逃げてはきたけれど、残っている人を侮辱したことはないつもりだ。付言すれば、「東北的な絆礼賛」とやらの延長線上の話をしているわけでもない。ただ、そうやって暮らしが回ってきた場所があって、それはそれとして尊重されなければならない、とだけ言っている(首都圏に生まれ育った複数の方から、「阪神淡路にはリアリティを感じるが、東北には感じない」といった意味のことを伺った。さまざまな要素が重なってのことだから軽々には言えないが、中央と地方、中心と周辺といった言葉が頭をよぎらないでもなかった)。

東電であり国に第一義的な責任がある。他のことを持ち出すのはかえって責任の所在をあいまいにし、物事の進展を遅らせる。たぶんそれは正しいのだろう。ただ、もちろん私が田舎から聞いた話に限定してしか言えないが、残って暮らしている人たちを苦しめているものの一つに、「世間のまなざし」は確実にある。逃げたところでそれは変わらない、あるいはもっとひどくなると思っている人もいる。汚れているもの、汚れているかもしれないもの、汚れていないとされているが信じられないからダメなもの(福島だけでなく宮城であれ岩手であれ)は、一切出すべきでないし受け入れられないという世間に(それが正しいことだとしても)、人だけはいらっしゃいと言われても、「行がね。行ぎだぐね」となるのを誰が責められるだろうか。何が支援かといって、そういう「世間のまなざし」が少しでも変わること――「汚れたもの」を受け入れろと言っているのではない。「汚れたもの」の近くで暮らしている人の姿を心に留め置おくだけでも違うと思う――が、一番の支援かもしれないと思う。

と書けば、おうむ返しに「そういう言い方こそが避難したいと思っている人の足かせになり、苦しめている。それこそ犯罪的だ」と言われる。「避難する人、したくてもできない人には最大限の支援を」と私も言ってきたつもりだが、残っている人のことを中心に言うとき、その言い方はそういう側面もはらむのかもしれない。

でも繰り返し言うしかないのだが、猪飼周平さんもブログでおっしゃっているように、福島の苦しみは「脱原発」の実現だけでは解消されない(問題の所在が違うというだけで、なぜかそこが伝わらずにお叱りを受けることが多いが、私は脱原発がいけないなどと言ったことはない)。簡単に何かと較べたり、一緒において一括りのものとして語ることができるような段階にも、少なくともまだ至っていないとも思う。福島の町や村は「世界が変わる」ための道具でもなく、おぞましき人も住まぬ地でもない。それだけは言えるし、言わなければと私は思っている。

投稿者 takahashi : 14:39 | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月29日

年の終わりに六たび

年末に「年の終わりに」というタイトルをつけてブログを書くのが6回目になる。今年がこういう年になろうとは、やはり思いもしなかった。
両親が一時避難から帰って行った3月のブログで、私は次のようなことを書いた。

「「福島」という名前に対する長い長い忌避や差別の感情が生まれ、日を重ねるごとにそれは強まっていくだろう。外部からの目だけではない。同じ「福島」の内側でも浜通り、中通り、会津との間で互いへの不満や、もっと言えば恨みをも含めた分断が生れてくるだろうと思う。それでもその中で生きていくしかない人たちがいる。反原発云々以前に、今回の事故の何が憎いかと言って、そういう差別や分断を人々の間にもたらしてしまったことだ。それを許さないと言うことは簡単だが、実際には容易なことではない。」

事態は予想した以上に悪くなっている。

思い出してみれば、念願の雑誌『支援』創刊号の校了が3月8日、ある種の達成感でいっぱいだった。気分のよい春になるはずだった。そして3月11日。しばらくは津波のことで頭がいっぱいだった。彼女の実家、岩手三陸の惨状はテレビの画面を直視することすら許さないというものだった。実家は波にさらわれ、近しい人も含め多くの人たちを失った。今も厳しい寒さの中、仮設での暮らしが続く。
その後原発がああいうことになった。まだ新幹線はおろか在来線も黒磯までしか動いていない中、車で避難してくる両親をその黒磯駅まで迎えにいった。高速東北道は自衛隊などの関係車両しか入れない(包み隠さず言えばあのとき「自衛隊」を頼もしく感じる自分が確かにいた。非常時の「力」への平伏とそれによる支配はこのようにして組織されていくのかもしれない。自分の普段の構え・考え方など実は脆いものだと実感せざるを得なかった)ので、ガソリンスタンドに長蛇の列ができ、断続的な停電で信号もつかない暗闇の国道4号をひたすら走ってようやく両親を埼玉の自宅に連れてきた。
そして「作付停止」のニュースを見て、「死ぬ人が出る」と言って両親は田舎に戻り、4月になり私はちいさな子どもと彼女を大阪の友人の家に一時預かってもらった。

一週間ほどで子どもと彼女は埼玉に戻り、福島に戻った私の両親も、仮設に連休前にようやく入ることができた彼女の岩手の両親や姉も、それぞれのいらだちや不安と折り合いをつけながら、どうにかこうにか暮らしてきた。

私はツイッターでくどいぐらいに福島のことをつぶやき続けた。「怨嗟」を巻き散らかしているとの言葉もいただいた。被害者意識にとりつかれているとも言われた。おそらくそうなのだろうと思う。反論はできない。
昨日だかの新聞に双葉町が中間貯蔵施設になったと書いてあった。そうするしかないだろうと思う。最終処理施設を県外になどということも無理な話だろう。比べてはいけないかもしれないが、沖縄の場合とは問題の所在がまったく違う。たぶんこちらは本当に県外には「動かせない」。

それでもと思う。「動かせない」「動かない」ものは汚れた土だけではない。「汚れた」ことも承知の上でそこで生きていくとした「人」が現にいるのだ。無駄な除染に金をかけるなら子どもを避難させることに金を使えという理屈に反対するつもりはない。ただ、それでも残る人たちに、忌避や差別の感情をこれ以上強めてはいけないと思う。

そこにいてそこで暮らし続けていることは知っているよ。
「3.11(サンイチイチ)」や「フクシマ」という記号で括り、「9.11」などと一緒に置いたりして、眉間にしわよせて知ったような口きいて「あたらしい世界をつくる契機に」なんていう、薄っぺらな話ではないことは、わかっているよ。
せめてそれぐらいは、くどいと言われてもぶつぶつ言っていこうと思っている。

小さな版元も来年は7年目を迎えます。この震災の前からもそして今もずっと、考えなくてはいけないことはたくさんあったし、あり続けています。また変わらず出版という仕事を通してそうした問題群と向き合っていきたいと思います。

今年1年のご支援に感謝し、来年もまたとお願いして

良い年をお迎えください

投稿者 takahashi : 13:13 | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月29日

瓦礫のはなし

夏に岩手・山田の瓦礫の山を見てきてからもう3か月以上がたとうとしている。
瓦礫のはなしをいろんな人がしているのを見聞きした。

.螢好を拡散するな福島にかぎらず被災したすべての地域の瓦礫の持ち出し反対
∧‥腓砲弔い討牢ゃの持ち出し反対
0汰汗の確認が取れたうえで受け入れ可能なものについては受け入れるべきだ
け染された瓦礫であろうが受益者負担、リスクの共有という意味で受け入れるべきだ

乱暴かもしれないがおおむね類型としては以上だろうか。

難しいのは一番遠くに位置していそうに見える,鉢い法△い錣罎觴匆餘親阿涼瓦ぜ蠅箙佑方が引き裂かれているように思われる点だ。

ただ感情的に恐怖からという人も(そのほうが圧倒的に多いと思うが)いるが、そもそも、こういう問い(瓦礫を受け入れてくれということ)自体が不当だという立場が,鉢△砲呂△襪茲Δ澄「原発の暴力性」にふたをし、責任をとらせるべき対象への戦いを弱めることになる、といったものだ。
間違ってはいないと思う。正しいと言っていいかもしれない。
ただ、分けて考えられている分にはいいが、その根にある思いは「瓦礫」にとどまらずに、なぜそんな汚染された地域に人を(子どもを)とどめ置くのだになり、住み続ける人の気もしれない、そこまで面倒は見きれない……に容易につながりかねない。その怖れをどうしても私はもってしまうし、「民度」云々など出てくるに至ってはお話にならないと思う。
一方い癲都市生活者、益を受けてきたものの責任としてと立てることは、一見真っ当だしかっこいいように見えるけれど、これも結局はコインを裏返してみせただけで、「では避難できる場所までなくしてしまえと言うのか」、「海の外にまで持ち出すことにつながる」といった容易に想定できる疑義にそれほど有効な答えをもっているとは思えず、受け入れ決定の透明性は到底担保されないだろうから、新たな「差別の対象」を生み出して終わりになりかねない。それに福島に残るという選択をした人への、それが大きな支援になっているともさして思えない。

私は実際には福島の瓦礫を持ち出すことは不可能だと思っている。原発からかなり離れた場所のものでこれは安全が確認できたといくら言っても、そこへの信頼がなくなっていてかつ、みんなして「フクシマ」というレッテルを作り上げてしまった以上、おそらくそれはかなわない。ただ、これはよくわからないで言うのだけれど、たとえば岩手や宮城の沿岸部などで動かさない限りはどうにもならず、そこにこれからコミュニティを再生していこうとしているところについては、安全性が心配だというなら、お上は信用できないというなら、それこそ市民レベルの計測団でも組織して動いたらどうかと思う。
おかしな「災害ビジネス」のチェック機関にも出来るかもしれないし。

福島は……「瓦礫」は瓦礫の話だけにして、そこから話を広げすぎないでほしい。人も瓦礫と同じように扱わないでほしい。残ると決めた人にもさまざまな立場や考えがあるだろうと思う。でも残って暮らしている以上、汚染された地でも住み続けるとして現にそこで生きている以上、除染はまったく効果がない、あれも無駄これも無駄、移住しかないと言ってまわるだけで(それがたとえ正しいとしても)、何になるのだろうとも思う。

出る、逃げると決めた人たちには最大限の支援を入れます。一方で汚染された土地で暮らしていくと決めた人たちにも、所詮他人事で何もできはしないけれど「無駄」かもしれなくてもやれそうなことは手伝います。それもできないなら、そこに住み飯を食べ時には遊び酒を呑みしている「あなた」が厳然といることだけは、忘れないようにします。時々は電話も入れます。

それぐらいが精いっぱいだろうと思う……くやしいけれど

投稿者 takahashi : 15:24 | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年10月31日

大きな話は細かいけれど大事な話を落っことさないでいられるか

何も脱原発や反原発にそれこそ反対しているのではない。今ある原発は停めて廃炉にし、新しく作らない、技術も輸出しない。それでいいと思う。知らぬうちに、徐々に撤退からすぐに脱原発に主張が変わっても――本当は選挙で票がほしいだけじゃないかと思わないでもないが――いい方向にシフトするならそれはいいことなんだから、ケチなんかつけてはいけないと思う。

ただ、福島についてそれでいいのか、「ノーモア・フクシマ」や「福島の子どもたちを守れ」や「葬列デモ」などなどで、福島を必ずくっつけて話し行動する、あるいは、それに対するザワツキやいらだちに対し、「私たちの中に福島の人はいるよ」「きちんと考えている福島の人はもうそのように動いているよ」とことさらに強調する、そういう運動でいいのかとなれば、私にはすぐには首肯しがたいものがある(同時にザワツキ、いらだつほうにも、便乗してわけのわからぬ「サヨク批判」などを喚き散らすとんでもない人がいて、心から軽蔑する)。

逃げないで残っている。それは私の実感では、みんな逃げたいのに東電や政府や地元自治体が見殺しにするから……だけではない。もちろん逃げたいのに逃げられない人もいる。でも、除染を進めて少しでも安全を確保する努力をして暮らしたいという人から、極端に言えば十分に安全とは言えないかもしれないが動かない動けない人までグラデーションはあって、それを叩いてまわってもしょうがないと思う。何よりこれから寒さが厳しくなる中で現にそこで暮らしている人たちがいるのだ。グラデーションの中のどの位置にいようと、今その現状にあった支援がそれぞれに入る、細かなところで入る、そのことが大きな話の中で忘れられつつある、あるいは端からそんなに考えられていなかった、ということはありはしないだろうか。
これはとてもお叱りを受けるかもしれないが、現地の日々の困難は、現実に起きてしまったことから来ているのであって、そこへの具体的な手当てがないところで空中戦をやっているばかりではしょうがないと思う。それこそが敵の思うツボだとたちまちにかえってくるのだろうが、大きな話をするときは細かな日常は犠牲になってもしょうがない、というのではやはり困る。

勘違いされてはこれも困るが、「福島の農産物を買いましょう食べましょう。市場に出ているものは安心・安全なんです。福島の復興なくして未来はない」などということに同調しているのでは、決してない。現状では流通し商品となる作物は作るべきではないし、食べる必要もないと思う。でも、だからといって「作るなんて犯罪だ、住むな、出ていけ」となって良いということにはならない。「商売を替えよ。生きる場はどこにでもある」と聞いてそう思える人もたくさんいるだろうが、一方でそれが残酷としか聞こえない人もいるということは了解しておくべきだと思うし、そういう人たちの誇りも少しは担保する支援の仕組みを考えることも大事な気がする。

自分たちの恐怖や不安と闘うために何かをだしに使うといったことには自制的でありたい。むしろ、かの地の人たちが孤立しないように差別されないように疲弊しきってしまわないように暮らしが回っていくように、別の場所で(少なくとも私は)安穏と過ごしているということを自覚しつつ、金も含め適切な支援が細かな部分にまで届くための、抽象的ではない話を積み重ねていくことに気をまわしたい……

投稿者 takahashi : 12:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年09月30日

他人事だって言ってくれたらいいのに

蒸し返すようだが、やはり違和感がある。
辞められた鉢呂さんのこと(というよりそのときのそれをめぐる騒ぎ)である。

あの一連の報道が始まったとき、私は神戸の学会展示の会場にいた。ラジオもテレビもPCもない。携帯でツイッターのタイムラインを眺めていただけだ。
「はめられた」という話は本当なのだろう。辞めなくてはいけなかったかどうかも疑問が残る。それはそうだ。
ただ、「脱原発」のみなさんの中の少なくない人が、すごく早い段階から以下のような内容をツイートしていたTLに私はザワザワした。怖かった。
曰く「『死の町』を『死の町』と言って何が悪い」「福島の人や福島出身の人は、誰も気にしてなんかいない。むしろ真実をよく言ってくれたと言っている」「ほかにもっとひどいことを言っている人はたくさんいる。鉢呂さんは福島のために献身的にやってくれていた」云々云々。
嘘をつけと思った。「死の町」という言葉を聞いて、少なくとも私は、その時点ではカチンときたし、「なすりつけるしぐさ」というのも悪気がないとしたら余計に始末が悪いと思った。「誰も気にしていない」のは少なくても嘘だ。俺は気にしてるぞ。
事実関係もはっきりしないのにバッシングするのは報道の横暴だというのは正しい。でも、はっきりしないうちから無条件に鉢呂さん擁護でキャンペーンを張るのはおかしくはないのだろうか。脱原発志向で良い人ならなんでもOKなのか?
はじめに結論ありきという意味ではどっちもどっちだ。そしてどちらも実は福島のことなんか見てはいない。だしに使うのもいい加減にしろよと思った。その同じ口で「ノーモアフクシマ」とか「ヒバクシャということの意義」なんて言われても俺は素直に聞けんぞと思った。

福島で今も生活している人や、そこで現に死にゆく人や、そこの土地や風景のことは、所詮他人事なんだ。自分自身や自分の周りの人のことが心配なだけなんだ。
ひどく後ろめたいし辛いけれど、福島を捨てて出てきた私は、そうと認めてそういう自覚の上でからでないと始めてはいけないように思う。

出来ればみなさんにもはっきりと他人事だと言ってほしいのだ。そのほうがよほど気が楽だし、伝わらなさにいちいち苛立たなくてもすむ。その上でそれでもということはもちろんあるとして……。

今年は作物をつくらず少しでも除染に役立つならと自分で種を買って蒔き畑で花を咲かせたヒマワリも、結局は役に立たないことがわかり、田舎の父は「花を見れただけでも、いがったべ」「そう思うしかねえんだぞ」と電話の向こうでひっそり笑っていたけれど、そんなむなしい努力があったことすら、私たちはだんだんと忘れていくだろう。そして今この時だと「福島ビジネス」で稼ぐ人たちも(言わせてもらえば一部の出版社も)、時がすぎればさっと蜘蛛の子を散らしたようにいなくなる。

私はそう思っている。

投稿者 takahashi : 16:48 | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年08月31日

後ろめたさの中で息継ぎしながら

以前使った手だが、ここ一月の間に、福島や岩手のことについて自分でつぶやいたものから、少し抜いて貼ってみる。

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横から聞こえてくる某NHKの番組で、福島は浜に加えて会津もと言ってるの聴いて、中通りの「見捨てられ感」もかなりキツいと思ってしまった。そういう「こっちはもっとキツい」比べが、相手の思う壷だとは分かりつつ

最近目に触れた言葉では、森達也さんの「後ろめたさ」と、金子達仁さんの「ノルウェーのために祈ったか」というのが、気持ちの中に残る。とりわけ「後ろめたさ」は、あ、言い当ててくれたと思った。分かりそうなもんだと見えるけど、言われるまで気づかなかった

寝ようと思い最後にラジオつけたら「ヒバクシャからの手紙」(カタカナだ)というのをやっていて、そうか一般には「後ろめたさ」というのは街にいて電気一杯使って、「ムラ」を犠牲にしてという話なのかと聞こえた。私が言い当てられたと思ったのは、単純に「結局は他人事」ということで、それとは違う

ややイチャモンつけてる感はあるけど、フクシマとかヒバクシャって言ってフレーム作られるのは、どうにも納得いかない。逆にこのことでは何を問題とすべきなのかが、見えなくなってしまうとすら思ってしまう

三泊四日の三陸への帰省から帰着。瓦礫は無くなったのではなく、町のはずれに何層にも何層にも積まれているだけ

仮設住宅を互いに悔やみや見舞いにたずねあるく盆の、送り迎えを少し手伝ってきた

これまでの暮らし方が間違っていたから違う何かをと括られても困り、金はないがまあまあ呑気だったついこないだをと言うのは、復古的でも反動でもないだろうという気も。理不尽に奪われた(形は違うが浜も山も)ということとの折り合いが全くついていない。反原発だとしてそこは考えたほうがいいような

私も子ども連れて福島には行かないし行けないし来るなと言われるのです。ずるいのです。ただ彼の地に残り暮らす人たちにとって「下がる」ことは良いと言っていいのではないか、暮らしの継続の肯定も大事なのではないか、とも思うのです

変わらず「後ろめたさ」が気分にひっついています。去年までとは違い岩手の後、福島飛ばして戻ってきた盆休みのことも含め

ベルギーのサッカー場での話は、日本の国内でももちろんすでにあってこれからもっともっときつくなること。あなたはふりあげた拳をどこにおろすのかと問われれば、説明のつかない苛立と一方での後ろめたさで、立ちすくむのみ

永劫帰れない地と言われて言葉を失う人たちの存在も、私は少しずつ忘れていくに違いない。尤も、身内にそのラインがかかってくればたぶん話は違ってくる。身勝手なんだ本当に

下小国の農地土壌で5000ベクレル超。毎日きついニュース多いがこれは・・・車で20分もかからないところだ。(好きな仕事なのに)作れない喰えない売れないあげられない。人も呼べないしこっちからも行かない・・・

旅先の九州から送った干物が届いたらしく福島から礼の電話あり。旨かったと言うので、つい「安心なところのもんだから」と返したら、「そう安心安全って言うな」と怒るでもなく、でも少しの悔しさと、諦めというか哀しみというかそんなものを含んだような電話の声。ああ、鈍感になっているな、と思う

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「後ろめたさ」について何度か言及しているのは、森達也さんが7月28日の朝日新聞に寄稿した「後ろめたさが視界を変える」を読んだことが、きっかけになっている。

「被災者や原発問題に関心を失いかけている『自分自身に対する違和感』なのだ…日常に戻りかけている自分が不安なのだ」
「(自殺者や、四川大地震、ハイチ地震の犠牲者の)これらの報道に接しながら、どれほどの人たちが、悲しみや辛さを共有していただろう…結局は他人事だったはずだ」
「自分たちの本質的な冷酷さに、多くの人たちは意識下できづいてしまった。だから疼く。何をしても落ち着かない。いつまでも後ろめたい。だから無理矢理に言語化したくなる」

この後、森さんは、こうした「後ろめたさ」が、「無関心を、能動へと転換する契機」となり、「視界は、きっと劇的に変わるはずだ」と書かれているが、その部分は私にはよくわからない。おそらく、そんなことはないだろうとも思う。
私が言い当てられたと思ったのは、上に引いた「結局は他人事」や「本質的な冷酷さ」、それゆえの「後ろめたさ」というところまでで、それ以上でも以下でもない。
でも、震災後に私が読んだ文章なり本の中で、今でもこの森さんの文章が一番心に残っている(もちろん、たいして読んだわけでもないけれど)。

最近ある人から、福島の出身であり(パートナーは岩手出身で)、家族が今もそこに暮らしていて、そういう立場からぶつぶつつぶやいていることについて「うらやましい」と言われた。そこだけとれば「えっ?」と思うかもしれないが、その気持ちはとてもよくわかる。たぶん、みんな、後ろめたくてやりきれないのだ。でも忘れていく。それでようやっと日々は回っていくということもあるわけだし……

ただ、それでも、「これを契機に」とか「オルタナティヴな未来を」とか言う前に、まだまだ、じくじくうじうじと悩んだり考えたりしなくてはいけないことが、たくさんあるように思う。
いつまでだと言われたら、ずっとだと答えるしかないような事柄だと思う。

それが、「そう安心安全って言うな」と小さな声で言う人たちに対する、私なりの「後ろめたさ」の引き受け方だ。

投稿者 takahashi : 17:15 | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年08月04日

トークセッション「支援のかたち/支援のゆくえ」開催しました

このブログでもご案内した、『支援』創刊記念のトークセッションが、先月23日早稲田大学で開催されました。セッションは、たこの木クラブの岩橋誠治さんと、日本自立生活センター、かりん燈の渡邉琢さん。参加者は『支援』編集委員のうちの5名も含めて、34名でした。のちにMLなどでこのトークセッションの感想や、岩橋さんも書かれている『良い支援?』、渡邉さんの『介助者たちは、どう生きていくのか』を読んでのコメントなどを寄せてくださった、つるたまさひでさんや、斉藤龍一郎さんなど、久しぶりにお目にかかる先輩たちも参加してくださったり、関西からも5名のご参加があるなど、セッション後の懇親会も含め内容充実の会になったと思います。

岩橋さんと、渡邉さん、ともに私が本を作る過程で長いこと通いつめ、今でもしょっちゅうお会いしてはさまざまなことを教えていただいたり、ただただ呑んだくれたりという、尊敬するお二人ですが、「支援」に取り組むことになった契機も、もちろん世代の差もあってその歴史も、そして取り組んでいる場所・地域・人たちが違うわけですからその考え方も、おのずと異なるものになります。うまくかみ合うだろうか、ぐだぐだになったらどうしようと、この二人で行きましょうと強く推した私も、進行役の三井さん、岡部さんにお願いして、流れのメモを作っていただいたり、当日の朝は少し不安になったりもしました(岩橋さん、渡邉さん、スミマセン)。

が、結果的には心配無用、杞憂でした。始まってみれば、どんどんお二人の会話形式で話が進み、流れを作るといった作業もほとんど不要だったように思います。
何より、お二人それぞれが「支援者」として云々以前に、そもそもどういうことを思い考えて生きてきた人なのか、そこがまず先にあって、その上で何らかの契機があり「支援」の現場に入っていき、今現在までの歴史がある。そこにかかわる、お二人それぞれの冒頭やや長めのお話には、ある程度付き合いのあるつもりだった私にとっても、ああ!そうなのか、というところがたくさんあり、それが現在のお二人の姿と連なり重なってくることで得心できたりする部分がありました。この段階でセッションの成功をほぼ確信しました。

お二人とも、自分の中に血肉化できていない「知識」を物知り顔で紹介したりなどということからは、遠いところにいて、無責任な物言いは自制される人です。話されることは、あくまで自分たちの具体的な取り組みや関わりに即してですが、だからこそ、私たちが疑いも持たずに了解しているような事柄でさえ、ときには逆説的な言い方も含めて、ガラガラとその前提を壊したりもしてくれます。「当事者主体と支援者」「介助で金を稼ぐ」などなど、気になる主題もとりあげつつ、「支援」という枠組みにとどまらない、示唆に富んだセッションになりました。あらためて、岩橋さん、渡邉さんに感謝いたします。

都合がつかず、当日お二人のお話が聞けずに残念がっておられる皆さんの声も届いていますが、このセッションは録音を起こし、手を入れて原稿化し、来年3月刊行予定の『支援』第2号に掲載されます。

かなり先に感じられるかもしれませんが、震災直前の3月10日に校了し、原発の爆発があって田舎から両親が一時避難してきているさなかの18日に創刊号の見本があがってきた、この雑誌『支援』も、すでに第2号の原稿依頼に入ろうとしています。
お二人のトークセッションは、創刊号から第2号へのもっともふさわしい橋渡しになっています。

どうぞ、楽しみにお待ちくださいますように。

投稿者 takahashi : 18:00 | コメント (0) | トラックバック (1)