2010年08月31日
「感動どうでしょう」と言われても
見てもいない24時間テレビのことをああだこうだは言いたくはありませんが、なぜ何年もあのような番組が続き、今年は歴代9位の視聴率だなどということになっているかが、さっぱり分かりません。昔も安鶴さんの言葉を引いてブログに書いたことがありますが、おそらく何かに感動しているのではなく、そういう事柄や人に感動している/できている「良い人としての自分」に感動しているのだと思うのです。したがってその感動とやらはその場限りのものであり、決して持続したり自分を何か具体的な行動に突き動かすものにはつながらない。言い過ぎなのかもしれませんし、確かに当事者の方も含めああいう番組に参加し、紹介もされということは、紛れもなく喜びなのだろうし、ひねくれもんは黙っておれというあたりが妥当なところとも思います。
でも感動は、持続して考えたり本当に難儀な事柄からは目をそらし、たまさかの免罪符として機能しているだけではないかと疑ってみるのは、やはり大事だと思います。しかもそれが、こう作ればこう反応するだろうという仕掛け・演出の中で、悪い言葉で言えば「強要」されたものであると、もしするなら、実はこれほど人をなめた話もないように思うのです。安易に感動なんかせんぞ、そんな感情で一時カタルシスを味わって、明日からはまた何事もなかったように自分の日常に埋没するなんてことは、あたしはイヤだ、ぐらいの気分で付き合って、この手の「感動どうでしょう」系のお話はちょうどいい、そんなふうに感じます。
見てもいないで言うなと言われるかもしれませんが、中のひとつひとつの話を問題にしたいのではなくて、そういうものの集積としてああいう番組が構成されているというあり方そのものに、違和感を覚えるのです。もちろんチャリティーのお金やその使われ方に、けちをつけているわけではありません。ただ、地域での日常を誰もが不当な差別を被ることなく生きていくということの持続と展開のためには、価値観そのものの問い直しだとか、その転換に伴っての具体的な制度の変更だとか、が必要な気がして、そのために大事になってくる、多くは面白くもなく感動的でもなかったりする、とても様々なこととは、少しばかり遠くに位置しているのではないかなあと、やはり思ってしまいます。
投稿者 takahashi : 17:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年08月12日
お盆休みの前に――臓器移植がよいこととされることについて
交替で休んであけておくというわけにもいかず、明日から17日まで事務所もしめて盆休みをとらせていただきます。
このところ気持ちがザワザワするニュースが続きました。新聞など読んでいると、こんなこと言うのは少数派なのかもしれませんが、臓器移植が家族の同意だけで認められ、切り分けられた臓器が各地で利用され、これを「命のリレー」のはじまり、などとする。このことが存外すんなりと世間に受け入れられ、「私たちもいざというときのために話し合いしておこうか」といった光景が好ましいものとして語られる。本当に恐ろしい時代が始まったものだと思います。
じゃあ、「オマエは5年も6年も臓器を待ち続けている、いたいけな子どもとその家族のことをなんとも思わないのか」と言われる。でも、くり返し言わざるを得ないのですが、そのことと、家族同意だけでいわば「殺されていい命」があるなどということとは、同列においていい話ではないのです。障害者とりわけ知的の当事者の姿などここではひとかけらも考えられていません。「いらない命」と「救うべき命」を、「善意や同情」というオブラートにくるんで、実は冷徹に切り分けていく事態がここにある、といったら言いすぎでしょうか。ネットでは死刑囚の人の臓器ならどうだなどということまで、平気で議論する人までいます。暗澹たる気分とはこのことです。
死刑の執行についても裏切られた気持ちで一杯です。他になんのとりえがなくとも、少なくもこの政権の間はあるいはこの法務大臣の間は死刑は執行されないだろう、その一点だけで票をあの党に入れた(私はそうでした)人もいるのではないでしょうか。社会の安寧と言う。「被害者遺族の気持ちを考えたことがあるのか」と言う。しかし、またぞろそれでも言わねばならないのですが、そのことと、国家が人を殺すことを認めてよいということとは、同列におかれていい話ではないと思うのです。冤罪の可能性のことももちろんあります。ただそれだけではないと思います。国が人を殺すことで、罪と罰の意味すら奪ってしまう、何もなかったことに却ってしてしまう、なぜと考えることは止めよと私たちすべてに強要する(その意味で終身刑にも私は反対です)。それはとても怖いことです。
ザワザワします。でも考えるのは止めず、それはどうしても納得しがたいということは、最後までぶつぶつぶつぶつ文句を言っていこうと思います。
投稿者 takahashi : 12:02 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年07月27日
愛おしいものを書くということ――『手招くフリーク』
今週末から書店に並ぶことになる、『手招くフリーク』は障害学のジャンルに括られる本としてはかなり異質なものだろうと思う。万人から好まれる本であるとは言えないだろうし、この人がこのことを書くのかと違和感をもつ読者もいるだろう。まぎれもなくこれは障害学の本だが、一方で、障害学が扱ってこなかったり落としてきたかも知れないものにこだわったという意味では、障害学の本ではないのかもしれない。
筆者の一人、矢吹康夫さんが本書を紹介する一文に書かれた、「表現されたものをただ批判するのではなく、ある種の愛をもって論じるというスタンスは本書全体にも通底しており…」は、まさしくその通りで、編著者の倉本智明さんの「友部以前と以降で、ぼくの見る風景は変わった。それは幸運なことであったように思う。世界なんて、そんなにすばらしいものじゃない」や、土屋葉さんの「『そんなキミが好き』のみによって回収されるのではない障害の肯定という視点を入れた、少女マンガを読んでみたいと思う」といった文章はそれを物語っている。偏愛する対象があるということ。それを書くということ。むろん独りよがりのものであってはならないし、愛すればこそ突き放してということがきちんと担保されていることを前提にしつつ、批評という行為の一つの大事な場所にそれはやはり位置しているだろうと思う。
この本は、法や制度、お金や分配などを扱ったもののように、広く読まれたりあるいは実務に関わって役に立つといったことはないかもしれない。ただ、有用性のみが本の価値を決定するものではないのであって、この本を世に送り出せたことが版元の私にとって大きな喜びであることは、間違いのない事実だ。願わくはより多くの読者の手に届かんことを、と思っている。
最後に、倉本さんの「序」から少しだけ引用させていただく。
「表現への規制をめぐる議論に参加する人たちのあいだに、その表現が置かれた<場>に認められる独自な作法や感受性への理解はどれだけ共有されているだろうか。労働や所得保障をめぐる議論をすすめる際、アイデンティティや実存をめぐる問題がそこに直結していることを、人びとは前提しているだろうか」
ps:昨晩はじめて自分の住んでいる場の火災を体験した。賃貸マンションの階下の一室が燃えた火事で類焼があったわけではなく、その部屋の方以外に被害が及ぶことはなかった。ただツイッターであるかたがおっしゃっていた、たとえ軽微な火災であったとしても、失火もとの部屋の方が従前どおり気持ちよく暮らしていけるのか、我々他の居住者の態度はどうなっていくのか、という問いはなかなかに重い。
そのこと自体がその場でもつ意味と、そのことの結果を関係性の中でどう捉えて排他的にならないありかたを目指すかは、延長線上に置かれてストレートに解決できることではないのだろう。それはさまざまな局面で出現し、そして、そう簡単に「私は」などと言えることではないとあらためて。
投稿者 takahashi : 17:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年07月14日
クリーンな世の中はそんなに良いのかということについて
相撲をめぐる情況が喧しいことになっている。大勢は、理事会に外部から人を迎えるだとか、公益法人格をはずすだとか、相撲茶屋の見直しだとか、部屋制度そのものをなくして力士は協会預かりにしろだとか、とにかく「反社会的勢力」を排除して、クリーンなスポーツにということらしい。
何か勘違いをしている。これだとそのうち、力士はみなスポーツ刈り、行司は蝶ネクタイかなんかして出てきかねない。そんなものを誰が見たいと思うのだろうか。髷を結って、大仰な土俵入りだの弓取りだのをし、キンキラリンの衣装着て軍配もって、とても大人4人も座れそうにない升席で、焼き鳥食って酒飲みながら見るから、相撲なのだ。スポーツではない。興行であり芸能であり、自分で金勘定などしないような人たちがやっているから、浮世離れしているのだ。巡業も含めた興行全体を通してのその様式があるからこそ、浮世の憂さを忘れることができる空間であり、田舎の親に一度見せてやるべえとなる。それをすべて良しとするわけではないが、そういうものとして成立してきたことは間違いないだろうと思う。
封建的だ保守的だということにそれはなるのかもしれない。閉鎖的だと言われればそれもそうだろう。暴力団の資金源になっていると言われればまたしかりかもしれない(そのことを良しとしているのでは勿論ない。いちいち断らないと、短絡して「じゃあオマエは暴力団を容認するのか」となる。誰もそんなことは言っていない)。だが、あえて言えば芸能や興行には成り立ちからいって、そうしたものが寄り添ってしまっているのであり、力士や芸能の世界に生きる人は、几帳面で時には抜け目なく立ち回りつつ日常の経済社会を生きていく多くの人々とは、違う世界を生きているのではなかったのか。社会人たれ、その模範たれという説教は私にはとても胡散臭く聞こえる。
「クリーンな社会」と言われてしまうと、みな黙らざるを得ないような雰囲気も逆にとても怖い。「反社会的勢力」で括られたらなんでも排除OKになってしまう。いや、暴力団は別だと言うかもしれないが、個別個別の成り立ち方、関係性を見ないで一派一からげに「排除」とされる社会になってしまったら、次は形と方法を変えて、別の対象にだって襲いかかってくるかもしれない(最初は限定的に言っていて後になったら何にでも適用なんてのはよくある話だ)。雰囲気としての「正義」が社会を覆うことの息苦しさも、もっと想像するべきだと思う。
この先、スポーツ相撲クリーン相撲に嫌気がさした人たちが、行き過ぎて保守的な興行を別枠で始めるなど、もしあったとするとどうなるだろう。落語にしろ、歌舞伎にしろ、閉鎖的な社会で培われた部分が大きいにせよ、大衆芸能として人々の目に晒されてきたからこそ、今に生きる活力を得てきたはずだ。「クリーン」と「復古」に分かれてしまうなら、その活力からはもっとも遠い、とっても退屈な出し物が提供されることになるに違いない。
投稿者 takahashi : 17:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
書評情報 4月下旬〜7月中旬現在
久しぶりの書評情報更新です。以下敬称は略させていただきます。
4月 吉村夕里『臨床場面のポリティクス』出版ニュース4月下旬号
5月 前田拓也『介助現場の社会学』部落解放6月号、評者:桜井厚
立命館大学生存学研究センター『生存学vol2』出版ニュース5月中・下旬号
西倉実季『顔にあざのある女性たち』インパクション174号、評者:阿久澤麻理子
トマス・ポッゲ『なぜ遠くの貧しい人への義務があるのか』出版ニュース6月上旬号
倉石一郎『包摂と排除の教育学』図書新聞2967号、対談:倉石一郎×好井裕明
6月 三島亜紀子他『妖怪バリャーをやっつけろ!』ふぇみん2925号
すぎむらなおみ他『発達障害チェックシートできました』ふぇみん2926号
7月 すぎむらなおみ他『発達障害チェックシートできました』図書新聞2972号、評者:三村洋明
吉村夕里『臨床場面のポリティクス』看護学雑誌8月号じゅあ44号
三島亜紀子他『妖怪バリャーをやっつけろ!』ナーシング・トゥディ8月号
ピープルファースト東久留米『知的障害者が入所施設ではなく地域で生きていくための本』ふぇみん2929号
投稿者 takahashi : 16:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年06月28日
話はもう終わったのか――口蹄疫と生産農家
宮崎の口蹄疫はもう収束に向かっているのだと、厚生労働省が発表したという。本当にそうなのだろうかと思う。生活支援・再興に向けた取り組みなどにはもちろん資本が投入され、様々な手当ては成されるのだろう(そうでなくてはもちろん困る)。ただ、それだけなのだろうかとも思う。
例えば、発生源はどこだ、移動してばら撒いたのは誰だという犯人探しにさらされる一方で、報道規制の影響もあって、正確な事実関係を他の国民に知ってもらうことすらなかなかかなわなかったということ(まだ移動制限が解除されたわけではないし、孤立感は今も強いだろうと思う)。
また例えば、自らが愛情を持って育てた何十万頭もの牛や豚たちを、毎日殺しては埋め続けなければならなかった、生産農家や農協の人たちに、PTSDのような症状は残らないだろうかということ。「所詮肉用として売ってお金を得る商品として育てていたのではないか」などと言う人がいたとすれば、あまりに幼稚な話だ。愛情を持って育てることは、規模が大きかろうが小さかろうが、変わらないし、家族旅行の一つもかなわず、動物たちと昼夜をともにしている畜産農家の人たちの実感と、それはあまりにかけ離れていると思う。私が農家の生まれで近くにも牛飼いや豚飼い、鶏飼い農家がいた、ということがあるからかもしれないが、今回の対応や報道の中にそうした農民の実感に寄り添う部分はあまり現われていなかったような気がするし、比較的多くの国民の意識もそこにはなかった、ように見える。
これがもし、犬や猫などの愛玩動物に伝染する病気で、感染予防に殺処分をということだったらどうだっただろう。そう想像してみるのはあまりに不謹慎だろうか。
ブランド牛肉など関係ないという人もいるかもしれない。私も直接口に入るかどうかという意味では関係ない。しかし、生産農家の口に入ることはもっとない。それはどれぐらい周知のことなのだろうか。「農家はいいよな、新鮮で美味いものが食えて」という言葉は半分当っているが、半分は的外れだ。エース級種牛をめぐる動きを冷ややかに見ていた人ももちろんいただろうが、そういうことでしか生き延びられないという構造を生んでいるのは、ほかならぬ私たち消費者自身でもある。そのことは、もっと人々に受けのよい、「安心安全な野菜・食品」という話に移したところで、あまり変わらない。大雑把に言えば「美味いもの」も「安心、安全なもの」も多くは金をもつ人にしか渡らず、金のない人々はそうとはいかない(もちろん様々工夫はするのだが)。そして農家はいずれにしろ疲弊している。
保護主義的農政をなどと言っているのではもちろんない。ばらまきせいと言っているわけでもない。ただこの乖離、わかってもらえなさは何とかならないものかと少しは思うので、話はまだ終わっていないとしか、言い様がない。
投稿者 takahashi : 10:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年06月08日
「当事者」をめぐって
どうもしっくりこないのだが、でも説明せよと言われるとしどろもどろになる事柄がある。
当事者学は当事者の学であって、それ以外の人々はあくまでサポーターである。したがってサポーターが当事者の権益を奪ったり、学の中心に居座ったり、そのことで商売をしたりということは、原則的には許されないし、サポーターの役割は、当事者が中心となる力をもつべく、高等教育などをはじめとした環境を整え、学として成立するための準備段階において経験や知識を提供することだ。概ねそういうことが言われ、それはそれで妥当だとされる。
どうもやはりしっくりこない。分けて前面に推し立てることで、その姿や理屈をもって「当事者」外の人々をある種の思考停止状態にさせてしまう。あるいはサポーターが知らずと「学」をこうあるべきだと規定してしまい、「当事者」その人を、動かしがたい位置に置き続け、役割を、意識しないままに固定化させる。「いち抜けた」を許さない。そんなことはないのだろうか。利用主義と言って、どちらが利用主義なのか、やはり私にはまだストンと落ちない。といって、きちんと反論できないどころか、そもそも間違えているかもしれないから、どうしたって、しどろもどろになるのだが……。
ということもあってなのか、知的の当事者と支援の人たちとの関わりの在り方、場の作られ方に興味があるというか、硬直したものを解きほぐす何かがあるのではと考えたり……。それまた一方的で身勝手な思いなのかもしれず、日々はそんなことで動いているわけではないのだけれど。
投稿者 takahashi : 13:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年05月27日
「非現実的」という言い方が見失わせるもの
朝日の朝刊を読んだ。内田樹さんがネットで非難されたというのは知らなかったが、「全基地撤去」は、東浩紀さんおっしゃるように、最も妥当な主張だと思う。訳知り顔で「非現実的」と論難することのほうが、よほど事の本質から人を遠ざけることに力を貸している。
不勉強のせいかもしれないが、なぜグアムなら良いのかが、私にはさっぱり分からない。かの地の貧困の問題と基地移転の話は、たとえ市長が来日してそれを訴えたからといって、混同されたり、前者を理由として後者が良いとされるものではないだろう。別の事柄として分けて考えられるべきだ。ではないと言うなら根拠を私にも分かりやすく教えてもらいたい。
同じ朝日で今週の月曜、鹿野政直さんが書いておられたが、沖縄の人たちの思いの核心が、移転・移設ではなく撤去・閉鎖にあるとすれば、なすべきは「非現実的」な話を、現実の議論の俎上にのせるために頭を悩ませ努力することなのではないかと思う。
せっかく割って出るんなら、せめて社民党には「移転ではなく撤去を」ぐらい言っていただきたいものだ。
今日は別のイヤなニュースもあった。自立支援法が、つなぎ「改正」されるという。廃止するのになぜ名前残してつなぐのかが、そもそも分からない。ヤバイなこれはと思うのは当たり前で、結局、1次意見書案が出たばかりの制度改革推進会議での議論も、「現実はなかなか」とかいってのらくら受け流され、気がつけば何も変らずって、そんなことはないと思うけれど、とても心配かつ、やな気分だ。
「きれいごと」などと揶揄されようがなんだろうが、理念はやっぱり大事。
投稿者 takahashi : 10:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年05月19日
それでも人は街で生きていかねば
今日、久しぶりでHPの近刊案内をアップした。一気に6本。スカスカになっていたので、近刊予定がないのかしらと、心配される向きもあったようだが、単純に時間がとれなくてアップできなかったのです。まだまだアップするものあるのですが、刊行が追いつかないのではお話にならないので、またそのうちに。
さてアップした中の一本、『知的障害者が入所施設ではなく地域で生きていくための本』は、長らく品切れとなっていてお問い合わせの多かった、2007年小社刊の『知的障害者が入所施設ではなく地域で暮らすための本』を増補改訂してあらたに新刊として、出版するもの。以下は、今回の刊行にあたって、「はじめに」に加えられた文章です。
「2009年、私たちの仲間でこの本にものっている2名の女性の方が、若くして亡くなられました。今現在、まだ私たちの支援の失敗について、明確な整理をすることができていません。この本の出版を見送ることも考えましたが、これから自立生活をしようとしている方は後を絶たず、また、現在自立生活をしている仲間に対しても同じ失敗をくりかえさないためにも、制度の変更とあわせて、現段階で出きる限りの改訂を行ないました。読んで下さった方からのご意見をいただければ幸いです。」
仲間の死という厳しい現実があり総括も未だしという状況で、この間、重版は実現にいたりませんでした。ただ、地域で生きていこう自立生活をしようという人たちは待ったなしでもあり、著者のピープルファースト東久留米の皆さんは、「支援の失敗とこれから」という整理は未だつかないながらも真摯に状況と向き合った新章を書き加え、世に問うて下さることになりました。
「それみろ、だから施設に置いて保護しとけばいいんだ」の声が今にも聞こえてきそうです。でもそうではない、やっぱり施設は出て街で生きていく、それは譲れない。「暮らすため」から「生きていくため」にタイトルは変りました。そこに込められた意味もまた大きいように思います。
本は月曜校了、来月5日〜6日の京都ピープルファースト全国大会がお披露目となります。重たい課題もしょった本になりますが、是非にも読んでいただきたいと思っています。
投稿者 takahashi : 17:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年04月23日
紙の本がなくなるという話について
iPadだkindleだということになって、タイトルのようなことが、かまびすしく語られ、そしてなんとなしの焦燥と消耗、悲観、ひいては現状からの逃避……。もちろん色んなことを知っていたほうが良いし、知らぬ故のさして根拠のない不安なら解消されたほうが良い。ただ、それを調べたりすることや、早めにバスに乗ろうとすることにやっきになって、あるいは逆に無闇と暗くなったりして、本来の仕事――現状では多くはまだ紙の本を作ることだ――から逃げてしまっているとしたらどうか。たぶん、なくなる、なくならないと大騒ぎをし続けても、誰にも何の得にもならない。何かにおびえ、紙の本の文化を守れなんて百万遍言ってるぐらいなら、デジタルがやれそうなこと、やったほうが良いこと――例えば読書へのアクセスがとりやすくなる人たちが格段に増えるといったことになるなら――は、進んだほうが良いし、アナログ少部数でやったほうが/でしか、良い/できないこともまたあるとすればやれば良い。
まずは今できることをやるしかないし、そこのクオリティをどう保ち高めるかに頭はむけるべきなのではないか。もともと明るい話に満ち溢れた業界でもあるまいし、これ以上暗くなっている暇などないのである。
投稿者 takahashi : 17:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
