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2011年10月 アーカイブ

2011年10月31日

大きな話は細かいけれど大事な話を落っことさないでいられるか

何も脱原発や反原発にそれこそ反対しているのではない。今ある原発は停めて廃炉にし、新しく作らない、技術も輸出しない。それでいいと思う。知らぬうちに、徐々に撤退からすぐに脱原発に主張が変わっても――本当は選挙で票がほしいだけじゃないかと思わないでもないが――いい方向にシフトするならそれはいいことなんだから、ケチなんかつけてはいけないと思う。

ただ、福島についてそれでいいのか、「ノーモア・フクシマ」や「福島の子どもたちを守れ」や「葬列デモ」などなどで、福島を必ずくっつけて話し行動する、あるいは、それに対するザワツキやいらだちに対し、「私たちの中に福島の人はいるよ」「きちんと考えている福島の人はもうそのように動いているよ」とことさらに強調する、そういう運動でいいのかとなれば、私にはすぐには首肯しがたいものがある(同時にザワツキ、いらだつほうにも、便乗してわけのわからぬ「サヨク批判」などを喚き散らすとんでもない人がいて、心から軽蔑する)。

逃げないで残っている。それは私の実感では、みんな逃げたいのに東電や政府や地元自治体が見殺しにするから……だけではない。もちろん逃げたいのに逃げられない人もいる。でも、除染を進めて少しでも安全を確保する努力をして暮らしたいという人から、極端に言えば十分に安全とは言えないかもしれないが動かない動けない人までグラデーションはあって、それを叩いてまわってもしょうがないと思う。何よりこれから寒さが厳しくなる中で現にそこで暮らしている人たちがいるのだ。グラデーションの中のどの位置にいようと、今その現状にあった支援がそれぞれに入る、細かなところで入る、そのことが大きな話の中で忘れられつつある、あるいは端からそんなに考えられていなかった、ということはありはしないだろうか。
これはとてもお叱りを受けるかもしれないが、現地の日々の困難は、現実に起きてしまったことから来ているのであって、そこへの具体的な手当てがないところで空中戦をやっているばかりではしょうがないと思う。それこそが敵の思うツボだとたちまちにかえってくるのだろうが、大きな話をするときは細かな日常は犠牲になってもしょうがない、というのではやはり困る。

勘違いされてはこれも困るが、「福島の農産物を買いましょう食べましょう。市場に出ているものは安心・安全なんです。福島の復興なくして未来はない」などということに同調しているのでは、決してない。現状では流通し商品となる作物は作るべきではないし、食べる必要もないと思う。でも、だからといって「作るなんて犯罪だ、住むな、出ていけ」となって良いということにはならない。「商売を替えよ。生きる場はどこにでもある」と聞いてそう思える人もたくさんいるだろうが、一方でそれが残酷としか聞こえない人もいるということは了解しておくべきだと思うし、そういう人たちの誇りも少しは担保する支援の仕組みを考えることも大事な気がする。

自分たちの恐怖や不安と闘うために何かをだしに使うといったことには自制的でありたい。むしろ、かの地の人たちが孤立しないように差別されないように疲弊しきってしまわないように暮らしが回っていくように、別の場所で(少なくとも私は)安穏と過ごしているということを自覚しつつ、金も含め適切な支援が細かな部分にまで届くための、抽象的ではない話を積み重ねていくことに気をまわしたい……

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