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2009年11月 アーカイブ

2009年11月10日

「正しいこと」「善いこと」が内包する危うさ――『包摂と排除の教育学』

人は結構「正しいこと」や「善いこと」に弱い。それがはらんでいる危うさや、担ってしまっているやもしれない体制補完的役割に何かきな臭さを感じたとしても、耳を塞いだり目をそむけたりしてしまう。そして「正しいこと」や「善いこと」を語り行う人はもちろんそれを疑ったりなど毛頭せず、自信満々に他人にも「せよ」と言う。
こうした事柄をきちんと見すえ批判することは、実は大変に困難で、時には一斉に反発されかねないという厄介さも抱えることになるのだが、今月末刊行予定の『包摂と排除の教育学』の中で、著者の倉石一郎さんは、その困難さや厄介さをきっちり引き受けている。

例えば、1970年代初頭の全朝教の教育実践の語りを読み込んで、倉石さんは以下のように言う。
<……「人間」であるための資格要件として、教育可能性がたえず参照されることが問題なのである。ここには「educableな存在(=「人間」)だけに教育は施すことができる」というトートロジーが読み取れる。そしてマイノリティ〈包摂〉の教育も、この「論理」から逃れられない。かつて〈排除〉の教育言説は日本人と朝鮮人とのエスニックな境界線に重ねて、人間/非-人間の線引きをした。〈包摂〉の言説はその線引きをずらして、朝鮮人の子ども一人一人の内部にそれを引き直した。その引き直しに鮮明な反差別・反レイシズムの意思が込められていることは言うまでもないが、それでもなお、この線引き実践そのものは問い直されることなく引き継がれ、トートロジカルな教育の論理も温存された。<略>朝鮮人は教育不可能な存在だから埒外に放逐するという〈排除〉の立場と、朝鮮人には教育可能な余地が見い出せるから〈包摂〉しようという立場は、同じコインの表裏の関係にあるのだ。だから〈包摂〉の教育言説は教育の論理総体を批判・対象化するに至らないという限界を抱え、これまでの実践の積み重ねを守るという保守的立場に転化しかねない危うさも抱え持っている>

また、別のところでは以下のようにも語っている。
<これらの教育実践記録の語りが口をつぐみ、黙殺を試みているものは何だろうか。それは、「人権教育」がその名において取り組みを始める、その始源のときから切り捨てを約束される「他者」の存在である>

生半可な覚悟ではこうしたことは言えないと思う。できたらそうした場からは逃げていたいという気持ちがないかと問われたら、わたしにも自信はない。でも研究なり学問なりというものが引き受けるべきは何かということになれば、断然決然、倉石さんの態度は支持されねばならない。

この本で倉石さんが目指しているのは、もちろん上記の内容に留まらない。批判の対象となる硬直した物語世界の構造がくずれ、「外部」自体が主題となってくるような「語り」にも、きちんとその目は向けられている。

真っ当なこの本が、真っ当に人びとに届き読まれることを願う。ザワザワとした感覚を味わうことになるかもしれないが、それは事柄の深淵にたどり着くためにたぶん必要なことだ。

2009年11月26日

『母よ!殺すな』第2版――ただの重版ではありません

10月のブログで雨宮処凛さんが書いてくださった『母よ!殺すな』の書評のことをとり上げさせていただいた。雨宮さんと、ビッグイシュー日本版編集部にお願いして、全文公開をお許しいただくことが出来た。すでに立岩真也さんの生存学のHPでもアップされているが、以下全文である。

「殺される側」からの叫び  雨宮処凛

 最近、ずーっと読みたかった本をやっと手に入れ、読んだ。それは1975年に出版された『母よ!殺すな』。07年に生活書院から復刊された同書は、脳性マヒの横塚晃一氏によって書かれたものだ。横塚氏は78年に42歳でガンのため亡くなっている。
 母よ、殺すな。ドキッとするタイトルだ。一体、母が誰を殺すというのだろう。この言葉の背景には、ある事件があった。70年、2人の重度の脳性マヒの子どもを抱えた母親が、2歳の下の子を殺してしまったのだ。母親は脳性マヒの子どもに対し、「この子はなおらない。こんな姿で生きているよりも死んだ方が幸せなのだ」と思ったという。
 この事件に対して世間は同情を寄せ、子どもを殺してしまった母親への「減刑嘆願運動」が起きる。それに対して、脳性マヒの人々の団体「青い芝の会」が「殺されてもやむを得ないのなら、殺された側の人権はどうなる」と、「殺される側」から声を上げたのだ。まさに障害をもつ人々の「生存権」を賭けた問いであった。
 横塚氏は同書で、以下のように書いている。
 「なおるかなおらないか、働けるか否かによって決めようとする、この人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって、障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている」
 ここにあるのは、あるがままの「命」を肯定しようとする叫びである。しかし、脳性マヒの人々が声を上げると、「世間」との軋轢が生まれてしまう。「哀れな障害者」には同情的な世間は、彼らが「主張」を始めるとたちまち手のひらを返すからだ。そうして働けるか働けないか、役に立つか役に立たないかで選別し、生存を否定、あるいは条件つきにしようとするあらゆる力に対し、彼らは全力で抗う。「青い芝の会」の行動綱領には「われらは強烈な自己主張を行う」「われらは愛と正義を否定する」「われらは問題解決の路を選ばない」という、一見「過激」ともとれる言葉が並ぶ。このような当事者運動が70年代に始まっていたことに驚愕し、彼らの言葉がまったく古くないどころか、目を覚まさせてくれるような躍動感に満ちていることにただただ驚いた。
 「母よ、殺すな」。このような言葉を言わなければいけない現実はあまりにもつらい。だけどこの本を読んで、改めて「生きる」ことについて、考えている。

「世界の当時者になる」VOL.71、『ビッグイシュー日本版』128号(2009/10/1)より転載

そして、雨宮さんの書評のおかげもあって、ついに『母よ!殺すな』が第2版へと向えることになった。復刊して2年、私にしてみればもっと早くにという気もするにはするが、何にしてもめでたい。そして、単に刷増しではなく、色々と考えている。

まず一つ、図々しくも雨宮さんに帯をお願いしてみたら、なんと「ぜひ、書きたい」とおっしゃってくださった。現在考えていただいているところだ。お楽しみに!

もう一つ、復刊時に、すずさわ書店版では未収録だった横塚さんの書き物をかなり補遺したのだが、同志社の廣野俊輔さんが、まだ拾えていなかったものを見つけ出してお送りくださった。以下の横塚さんの書き物を今回の第2版で更に追加させていただこうと考えている。
「回想」(マハラバの総括文)、「地域社会と障害者の姿勢」、「重症児殺害事件その後」、「キャンプ報告」、「役員推薦を辞退します」、「青い芝再出発にあたって」、「団結こそ解放への道――藤田正弘氏自殺への抗議行動によせて」、「文部省の方針と法律」、「77年年頭にあたって」。復刊初版を買ってくださった方々には申し訳ない気もするが、見つかった以上、読んでこれは是非入れなければと思った以上、入れるしかないと思った。お許しを、そして出来れば第2版も是非お手許に……。

準備を進めている第2版は、早ければ年内ギリギリに、遅くも年明け早々には出来てくる予定だ。

雨宮さん、廣野さん、初版をお買い上げいただき読んでくださった多くの皆さん。ありがとうございました。そして、まだ『母よ!殺すな』を手にとっていない皆さん、どうか楽しみにお待ち下さいますように。

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