« 2011年10月 | メイン | 2011年12月 »

2011年11月 アーカイブ

2011年11月29日

瓦礫のはなし

夏に岩手・山田の瓦礫の山を見てきてからもう3か月以上がたとうとしている。
瓦礫のはなしをいろんな人がしているのを見聞きした。

.螢好を拡散するな福島にかぎらず被災したすべての地域の瓦礫の持ち出し反対
∧‥腓砲弔い討牢ゃの持ち出し反対
0汰汗の確認が取れたうえで受け入れ可能なものについては受け入れるべきだ
け染された瓦礫であろうが受益者負担、リスクの共有という意味で受け入れるべきだ

乱暴かもしれないがおおむね類型としては以上だろうか。

難しいのは一番遠くに位置していそうに見える,鉢い法△い錣罎觴匆餘親阿涼瓦ぜ蠅箙佑方が引き裂かれているように思われる点だ。

ただ感情的に恐怖からという人も(そのほうが圧倒的に多いと思うが)いるが、そもそも、こういう問い(瓦礫を受け入れてくれということ)自体が不当だという立場が,鉢△砲呂△襪茲Δ澄「原発の暴力性」にふたをし、責任をとらせるべき対象への戦いを弱めることになる、といったものだ。
間違ってはいないと思う。正しいと言っていいかもしれない。
ただ、分けて考えられている分にはいいが、その根にある思いは「瓦礫」にとどまらずに、なぜそんな汚染された地域に人を(子どもを)とどめ置くのだになり、住み続ける人の気もしれない、そこまで面倒は見きれない……に容易につながりかねない。その怖れをどうしても私はもってしまうし、「民度」云々など出てくるに至ってはお話にならないと思う。
一方い癲都市生活者、益を受けてきたものの責任としてと立てることは、一見真っ当だしかっこいいように見えるけれど、これも結局はコインを裏返してみせただけで、「では避難できる場所までなくしてしまえと言うのか」、「海の外にまで持ち出すことにつながる」といった容易に想定できる疑義にそれほど有効な答えをもっているとは思えず、受け入れ決定の透明性は到底担保されないだろうから、新たな「差別の対象」を生み出して終わりになりかねない。それに福島に残るという選択をした人への、それが大きな支援になっているともさして思えない。

私は実際には福島の瓦礫を持ち出すことは不可能だと思っている。原発からかなり離れた場所のものでこれは安全が確認できたといくら言っても、そこへの信頼がなくなっていてかつ、みんなして「フクシマ」というレッテルを作り上げてしまった以上、おそらくそれはかなわない。ただ、これはよくわからないで言うのだけれど、たとえば岩手や宮城の沿岸部などで動かさない限りはどうにもならず、そこにこれからコミュニティを再生していこうとしているところについては、安全性が心配だというなら、お上は信用できないというなら、それこそ市民レベルの計測団でも組織して動いたらどうかと思う。
おかしな「災害ビジネス」のチェック機関にも出来るかもしれないし。

福島は……「瓦礫」は瓦礫の話だけにして、そこから話を広げすぎないでほしい。人も瓦礫と同じように扱わないでほしい。残ると決めた人にもさまざまな立場や考えがあるだろうと思う。でも残って暮らしている以上、汚染された地でも住み続けるとして現にそこで生きている以上、除染はまったく効果がない、あれも無駄これも無駄、移住しかないと言ってまわるだけで(それがたとえ正しいとしても)、何になるのだろうとも思う。

出る、逃げると決めた人たちには最大限の支援を入れます。一方で汚染された土地で暮らしていくと決めた人たちにも、所詮他人事で何もできはしないけれど「無駄」かもしれなくてもやれそうなことは手伝います。それもできないなら、そこに住み飯を食べ時には遊び酒を呑みしている「あなた」が厳然といることだけは、忘れないようにします。時々は電話も入れます。

それぐらいが精いっぱいだろうと思う……くやしいけれど

About 2011年11月

2011年11月にブログ「生活書院ブログ〜今、大事なことを考えているんだ」に投稿されたすべてのエントリーです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。

前のアーカイブは2011年10月です。

次のアーカイブは2011年12月です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Creative Commons License
このブログは、次のライセンスで保護されています。 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス.