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【Web連載】
「先天性四肢障害児父母の会」:堀智久新刊・1
連載:予告&補遺
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立岩 真也
(2014/04/25)
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堀智久の
『障害学のアイデンティティ――日本における障害者運動の歴史から』
がこの3月に刊行された。その目次は以下。
序章 本研究の課題
第1章 〈反優生思想〉の視座の障害学
第1部 戦前の教育保護構想と戦後の具現化――戦時期から高度経済成長期へ
第2章 教育心理学者・実践者の教育保護改革――精神薄弱教育の戦時・戦後占領期
第3章 重症児の親の運動と施設拡充の政策論理――精神薄弱福祉の高度経済成長期
第2部 障害児者の視点に立つ運動へ――1970年代以降
第4章 日本臨床心理学会における反専門職主義(1)――専門職であることを超えて
第5章 日本臨床心理学会における反専門職主義(2)――専門性の限定的な肯定あるいは資格の重視へ
第6章 先天性四肢障害児父母の会における障害認識の変容(1)――「子どものありのまま」を認める運動へ
第7章 先天性四肢障害児父母の会における障害認識の変容(2)――優生思想と向き合う
終章 全体的考察
その中身についてはだんだんと。ここでは、この本では第4章・第5章と第6章と第7章になった研究がようやく公刊されてよかったと思う、と、それだけ。
ずいぶん長い時間待ったように思う。というのは勝手な感慨なのであって、もちろん各自は自分がしたいと思う研究をするわけで、私が求めるものをを誰かがやってくれるというのはそうなかなかないことだ。 ただ私なりの期待、見立てといったものを伝えるのは許されるだろうと思い、ずっと持たせてもらっている
『現代思想』
の連載では、過去に幾度か書いたことを繰り返しながら、そうした文章を書かせてもらっている(
「生の現代のために・1――連載 97」
・
「生の現代のために・2――連載 98」
)。そしてそれ以外にもこういうことが調べられるとありがたいのだけれどもといったことを書いてきた。
以下、第6章・第7章でとりあげられている
「先天性四肢障害児父母の会」
における拙著『私的所有論』での言及。拙著初版から17年経ってまとまった研究が誰でも読めるものになった(【 】は第2版での加筆部分)。
「◇21 「原発や放射能の恐さについて、『女たちの反原発』では「生態系のバランスがくずれること」と抽象的なことを書いたが、最近の私は「自分の健康がそこなわれること」と考えている。/そういうとすぐに「ほら、やっぱり障害者でない方が、いいんじゃないの」という声が聞こえてきそうだ。/しかし、「障害」と「健康」は、はたして対立する概念なのだろうか。」(
堤愛子
[1989:34-35]、なお本に収録されているのは堤[1988]、生命倫理研究会のシンポジウムでの発言(生命倫理研究会生殖技術研究チーム[1992])も参照のこと)
古川清治
[1988]が近いことを述べている。原発に反対するのは、それが障害児を産み出すからではなく、命を奪うことがあるからだと言う。【立岩[2002a]でいくつか文献を加え、同じ主題についての議論にふれている。また
[2010f]
・
[2011a]
が、英語の文章としては[2011c]がその続きということにもなる。痛み、死をもたらすもの、できないこと、異なり、加害性の付与を分けて考えるべきだと述べている。そのうち書籍の一部にする。東日本大震災以後、原発と障害(者)という主題について書かれたものとして
米津知子
[2011]、
野崎泰伸
[2012]。hp
[原子力発電(所)と障害(者)]
がある。】
先天性の障害の原因究明を求めると同時に(正確にはこの主張の少し後から)障害があって生きるあり方を探っていった
「先天性四肢障害児父母の会」
の活動の軌跡が注目される(先天性四肢障害児父母の会編[1982a][1982b]、
野辺明子
[1982][1989a][1989b][1993]、等)。【この会についての論文として
堀智久
[2007][2008]。】(
『私的所有論 第2版』
pp.724-725)
この註は第9章「正しい優生学とつきあう」の以下の本文に付されたものだ。
「病であるとは何か。簡単にしよう。病とは苦痛であり、死をもたらすものである。そしてその苦痛は、他者の価値を介することのない苦痛である。それは、まずはその人にだけ現れるものである。様式の違い、及び(自身に委ねられる場合の)不都合さとして現象する「障害」と、苦痛を与え死を到来させるものとしての「病」とは異なる。もちろん、両者が同時にその人に入りこんでいる場合はあるだろう。しかし、両者の違いは曖昧で、境界は定められず、両者を区別する意味はないとまで言うのだったらそれは違う。私達は区別することができるし、区別している。◇21」(
『私的所有論 第2版』
pp.724-725)
そして石川准・倉本智明編
『障害学の主張』
(2002、明石書店)に収録された
「ないにこしたことはない、か・1」
では以下。
「☆04 […]ホームページに引用した。また例えば「先天性四肢障害児父母の会」。この会は、生まれた時に手や足の指がない、少ないといった障害をもつ子どもの親の会として、1975年に設立された。その障害の原因は不明だったのだが、環境汚染が様々に問題にされていた時期でもあり、環境要因が疑われ、会は当初「原因究明」を訴える活動をする。。ここでは、当然、その障害をなくすことが目指された。だが現に障害があって暮らしている子どもがいる時に、障害を否定的に捉えてよいのか。そうしたことを考えていくことになる。例えばその軌跡をたどってみたらよいと思う。(cf.野辺[2000]、「先天性四肢障害児父母の会」のホームページはhttp://park.coconet.or.jp/hubonokai/)。
それ以外にもいくつもそういうことに関わる話を聞いてきた。例えばワクチンができたためにポリオがなくなった。それはよかったのだろうかという問いを聞いたことがある。また、フェニルケトン尿症は新生児スクリーニングによって発見されると食餌療法によって障害を回避できる。これは果たしてよいことなのだろうかといった問いかけも聞いたことがある。cf.立岩[1997:23]」(会のHPのURLは変更されている→
http://www10.ocn.ne.jp/~fubo/
)
堀さんは自身この会の会員なのだが、その会に長く関わってきた野辺明子さん他に長いインタビュー等して論文を書いてきて、それが博士論文に組み込まれ、そして今度の本の一部になった。
* * *
しばらくあいたのだが、前回まで4回(第34回
「『生死の語り行い・1』がまた入り用になってしまっている・1」
、第35回
「その時まで待て、と尊厳死法に言う+」
、第36回
「やはり政治的争点であること」
、第37回
「末期について」
)、
『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』
の再度の告知・宣伝をしつつ「尊厳死法案」の動向にもふれてきた。上程はまだわからないが、法案は作られつつある。奇妙な法案である。新聞に掲載されたコメントなど載せていくつもりなので、
「安楽死尊厳死・2014」
をご覧ください。
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■生活書院の本×3
◆堀 智久 20140320
『障害学のアイデンティティ――日本における障害者運動の歴史から』
,生活書院,224p. ISBN-10:4865000208 ISBN-13:978-4865000207 3000+
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◆立岩 真也 2013/05/20
『私的所有論 第2版』
,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061
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◆立岩 真也・有馬 斉 2012/10/31
『生死の語り行い・1――尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』
,生活書院,241p. ISBN-10: 4865000003 ISBN-13: 978-4865000009 2000+
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