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「感動どうでしょう」と言われても

見てもいない24時間テレビのことをああだこうだは言いたくはありませんが、なぜ何年もあのような番組が続き、今年は歴代9位の視聴率だなどということになっているかが、さっぱり分かりません。昔も安鶴さんの言葉を引いてブログに書いたことがありますが、おそらく何かに感動しているのではなく、そういう事柄や人に感動している/できている「良い人としての自分」に感動しているのだと思うのです。したがってその感動とやらはその場限りのものであり、決して持続したり自分を何か具体的な行動に突き動かすものにはつながらない。言い過ぎなのかもしれませんし、確かに当事者の方も含めああいう番組に参加し、紹介もされということは、紛れもなく喜びなのだろうし、ひねくれもんは黙っておれというあたりが妥当なところとも思います。

でも感動は、持続して考えたり本当に難儀な事柄からは目をそらし、たまさかの免罪符として機能しているだけではないかと疑ってみるのは、やはり大事だと思います。しかもそれが、こう作ればこう反応するだろうという仕掛け・演出の中で、悪い言葉で言えば「強要」されたものであると、もしするなら、実はこれほど人をなめた話もないように思うのです。安易に感動なんかせんぞ、そんな感情で一時カタルシスを味わって、明日からはまた何事もなかったように自分の日常に埋没するなんてことは、あたしはイヤだ、ぐらいの気分で付き合って、この手の「感動どうでしょう」系のお話はちょうどいい、そんなふうに感じます。

見てもいないで言うなと言われるかもしれませんが、中のひとつひとつの話を問題にしたいのではなくて、そういうものの集積としてああいう番組が構成されているというあり方そのものに、違和感を覚えるのです。もちろんチャリティーのお金やその使われ方に、けちをつけているわけではありません。ただ、地域での日常を誰もが不当な差別を被ることなく生きていくということの持続と展開のためには、価値観そのものの問い直しだとか、その転換に伴っての具体的な制度の変更だとか、が必要な気がして、そのために大事になってくる、多くは面白くもなく感動的でもなかったりする、とても様々なこととは、少しばかり遠くに位置しているのではないかなあと、やはり思ってしまいます。

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2010年08月31日 17:03に投稿されたエントリーのページです。

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