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クリーンな世の中はそんなに良いのかということについて

相撲をめぐる情況が喧しいことになっている。大勢は、理事会に外部から人を迎えるだとか、公益法人格をはずすだとか、相撲茶屋の見直しだとか、部屋制度そのものをなくして力士は協会預かりにしろだとか、とにかく「反社会的勢力」を排除して、クリーンなスポーツにということらしい。

何か勘違いをしている。これだとそのうち、力士はみなスポーツ刈り、行司は蝶ネクタイかなんかして出てきかねない。そんなものを誰が見たいと思うのだろうか。髷を結って、大仰な土俵入りだの弓取りだのをし、キンキラリンの衣装着て軍配もって、とても大人4人も座れそうにない升席で、焼き鳥食って酒飲みながら見るから、相撲なのだ。スポーツではない。興行であり芸能であり、自分で金勘定などしないような人たちがやっているから、浮世離れしているのだ。巡業も含めた興行全体を通してのその様式があるからこそ、浮世の憂さを忘れることができる空間であり、田舎の親に一度見せてやるべえとなる。それをすべて良しとするわけではないが、そういうものとして成立してきたことは間違いないだろうと思う。

封建的だ保守的だということにそれはなるのかもしれない。閉鎖的だと言われればそれもそうだろう。暴力団の資金源になっていると言われればまたしかりかもしれない(そのことを良しとしているのでは勿論ない。いちいち断らないと、短絡して「じゃあオマエは暴力団を容認するのか」となる。誰もそんなことは言っていない)。だが、あえて言えば芸能や興行には成り立ちからいって、そうしたものが寄り添ってしまっているのであり、力士や芸能の世界に生きる人は、几帳面で時には抜け目なく立ち回りつつ日常の経済社会を生きていく多くの人々とは、違う世界を生きているのではなかったのか。社会人たれ、その模範たれという説教は私にはとても胡散臭く聞こえる。

「クリーンな社会」と言われてしまうと、みな黙らざるを得ないような雰囲気も逆にとても怖い。「反社会的勢力」で括られたらなんでも排除OKになってしまう。いや、暴力団は別だと言うかもしれないが、個別個別の成り立ち方、関係性を見ないで一派一からげに「排除」とされる社会になってしまったら、次は形と方法を変えて、別の対象にだって襲いかかってくるかもしれない(最初は限定的に言っていて後になったら何にでも適用なんてのはよくある話だ)。雰囲気としての「正義」が社会を覆うことの息苦しさも、もっと想像するべきだと思う。

この先、スポーツ相撲クリーン相撲に嫌気がさした人たちが、行き過ぎて保守的な興行を別枠で始めるなど、もしあったとするとどうなるだろう。落語にしろ、歌舞伎にしろ、閉鎖的な社会で培われた部分が大きいにせよ、大衆芸能として人々の目に晒されてきたからこそ、今に生きる活力を得てきたはずだ。「クリーン」と「復古」に分かれてしまうなら、その活力からはもっとも遠い、とっても退屈な出し物が提供されることになるに違いない。

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2010年07月14日 17:10に投稿されたエントリーのページです。

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