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幡ヶ谷ではない

(少しは)広くて(少しは)安く、と思い立ち、自宅を引っ越した。「幡ヶ谷? なんでそんな近いところに越したの」と聞いてきた人がいる(わたしがこれまで使っていた駅は笹塚)。わたしの滑舌(この言葉が変換できないとは知らなんだ)が悪いのがいけないのだが、それは聞き間違いというものである。

それはともかく、賃貸の住居契約の保証人ってなんで未だに「親」じゃないといけないのか。80に手が届こうという親に頼むのが、申し訳ないやら、恥ずかしいやら。ただ、この問題、わたしが恥ずかしいだけの話ではもちろん済まない。親がいない、虐待されて逃げ出してきた、障害を持っていることで囲い込まれている、「日本人」とやらじゃない……「家族」という形から抜けたり、壊したりすることで、あるいは単身者・単独者であることを自ら選んだり、選ばなくともそうであったり、そうした中で「自立」していこうとする人たちがたくさんいるのに、「家族」「保護者」という担保に社会がしばられているために、部屋すら借りられない、借りられたとしても選択の幅が思い切り狭められて、我慢して住むしかない。

社会の安寧やら、安全やらということが言われるあまり、自由度が極端に低くなる世の中っていかがなものか。誰に気兼ねすることなく、見張られることなく、気に入った棲みかに棲み、いやなことがあったりしたら、出ていってまた気に入った棲みかを探す。そんな当たり前のことが誰にも保障されてほしい。

先週末、幡ヶ谷ではないところに越して、そんなことを少し考えた。

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2008年05月22日 17:48に投稿されたエントリーのページです。

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