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社会化・専門性・お金

○○が何かによって、もちろん話はまったく違ってくるし、素人が乱暴に語ったりしてはいけない事柄なのでしょうが、方向としてとりあえず「○○の社会化」というのは正しいというのは、自明なことなのでしょうか? 

たとえば「ケア」だとします(「介助」「介護」…なにが入るかで、なにを入れるかで考え方、立場がでることもある)。「下手」な人にやってほしくない。対人援助技術をもった相性のいい人がいい。したがって有償化し社会がそれを保障する以外に無い。ヘルパーの方々への報酬、待遇が劣悪である。専門性についてはきちんと評価し、社会的に保障しよう、実際にケアを担えない人は、お金を出そう。でなければ、ケアを必要とする側も、ケアを提供する側もどちらも不利益を被る。うーん、そうなんだろうな。間違ってないな。

でも、「社会化」の部分が、実際にケアは担わない人達にきちんと理解されるだろうか、という疑問がどうしても残るのではないでしょうか。担う人とお金を出す人とに、いわば社会的に分担されているということに、意味はみんなが認識した上で、なるのだろうか。ケアを直接には担えない(あるいは担いたくない)人が、その手段として有償ケアを位置づける、逆にいえばそう志向する以上、無償ケアは認めない。極端に言えば、無償のケア行為を媒介して、何かを考えたり、研究成果を得ようとするような態度も認めない(その態度のあり方はおくとして)、といったことにはならないのか。関係の契機が失われることには繋がらないのか。

専門性の評価についても、あまり強調されると、「専門性による支配」になりかねないのではないか。「尻をぬぐってやるのに何で資格がいるのか」と言って「友人関係の介助」をベースに施設や家を出たあり方を、もう少し考えてみてもいいのではないか。障害者と高齢者って、やはり問題のある場所が少し違う気がするけれど、幼老障一元で考えるのはどうなんだろう。

とはいっても、金が使えて、適切かつ快適なサービスを時間量を気にせず取ろうと思えば、やはりケア労働の有償化しかないのだろうか。ぐじゃぐじゃした感情が入り込んでくることも、過剰な思い入れやら感動の押し付けも、そのほうがずっと少ないだろうし。それに、第一、現実にケアが質量ともに確保されていないという事実にほうかむりしているだけじゃないか、などなど。素人考えでも、悩ましいことはとても多いように思うのです。

悩ましく、わたしなどには「どこがわかりにくいか」すらわからないので、このことだけではない、自立生活と支援に関わるもっとごじゃごじゃしたことを、しつこく考える本を作っていただこうと、相談が始まったところではあります。


PS:いつも古くからの歌い手の話ばっかりで辛気臭いと思われても癪なので、こんなんどうでしょ。
春一番にも出てたり、これや これなどで、渡さんの歌を歌ってたりするので、「同じじゃないか」と言われると困るけど、同じじゃないです。

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2007年07月22日 11:11に投稿されたエントリーのページです。

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