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他人事だって言ってくれたらいいのに

蒸し返すようだが、やはり違和感がある。
辞められた鉢呂さんのこと(というよりそのときのそれをめぐる騒ぎ)である。

あの一連の報道が始まったとき、私は神戸の学会展示の会場にいた。ラジオもテレビもPCもない。携帯でツイッターのタイムラインを眺めていただけだ。
「はめられた」という話は本当なのだろう。辞めなくてはいけなかったかどうかも疑問が残る。それはそうだ。
ただ、「脱原発」のみなさんの中の少なくない人が、すごく早い段階から以下のような内容をツイートしていたTLに私はザワザワした。怖かった。
曰く「『死の町』を『死の町』と言って何が悪い」「福島の人や福島出身の人は、誰も気にしてなんかいない。むしろ真実をよく言ってくれたと言っている」「ほかにもっとひどいことを言っている人はたくさんいる。鉢呂さんは福島のために献身的にやってくれていた」云々云々。
嘘をつけと思った。「死の町」という言葉を聞いて、少なくとも私は、その時点ではカチンときたし、「なすりつけるしぐさ」というのも悪気がないとしたら余計に始末が悪いと思った。「誰も気にしていない」のは少なくても嘘だ。俺は気にしてるぞ。
事実関係もはっきりしないのにバッシングするのは報道の横暴だというのは正しい。でも、はっきりしないうちから無条件に鉢呂さん擁護でキャンペーンを張るのはおかしくはないのだろうか。脱原発志向で良い人ならなんでもOKなのか?
はじめに結論ありきという意味ではどっちもどっちだ。そしてどちらも実は福島のことなんか見てはいない。だしに使うのもいい加減にしろよと思った。その同じ口で「ノーモアフクシマ」とか「ヒバクシャということの意義」なんて言われても俺は素直に聞けんぞと思った。

福島で今も生活している人や、そこで現に死にゆく人や、そこの土地や風景のことは、所詮他人事なんだ。自分自身や自分の周りの人のことが心配なだけなんだ。
ひどく後ろめたいし辛いけれど、福島を捨てて出てきた私は、そうと認めてそういう自覚の上でからでないと始めてはいけないように思う。

出来ればみなさんにもはっきりと他人事だと言ってほしいのだ。そのほうがよほど気が楽だし、伝わらなさにいちいち苛立たなくてもすむ。その上でそれでもということはもちろんあるとして……。

今年は作物をつくらず少しでも除染に役立つならと自分で種を買って蒔き畑で花を咲かせたヒマワリも、結局は役に立たないことがわかり、田舎の父は「花を見れただけでも、いがったべ」「そう思うしかねえんだぞ」と電話の向こうでひっそり笑っていたけれど、そんなむなしい努力があったことすら、私たちはだんだんと忘れていくだろう。そして今この時だと「福島ビジネス」で稼ぐ人たちも(言わせてもらえば一部の出版社も)、時がすぎればさっと蜘蛛の子を散らしたようにいなくなる。

私はそう思っている。

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2011年09月30日 16:48に投稿されたエントリーのページです。

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