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【Web連載】


『家族性分業論前哨』広告・2 連載:予告&補遺・18

立岩 真也  (2013/09/02)
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  『現代思想』39-17(2011-12臨時増刊)が、「臨時増刊号 総特集:上野千鶴子」だった。そこに掲載された「わからなかったこと、なされていないと思うこと」という文章からの引用を、同時期に出た『家族性分業論前哨』の広告として連ねている理由については前回をご覧ください。
  今回は前回の引用の続き。以下。

 ――以下――

「■資本?・国家?
  そしてこれらの問いにどこかできちんと答えられることもなく、同時に、さらに、その主婦が家事労働を担うことは、資本(制)にとって、国家にとっての利益になる、と並べられる。だがここでは、なぜ(本来)支払うべきかといった問い――少なくとも雇用主が払うべきであるという話は普通は成り立たないことは、今度の本の第4章になった「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」(立岩[1994b])に記した――の手前で、資本というにせよ国家というにせよ、それが何なのか、それらにとっての利益とは何のことだか、わからない。払うべきである負担するべきであるとまで言わなくてもよいとしても同じ問いは残る。正機能的であること/逆機能的であることは、正当である/不当であることとは別のことである――この二つの対の区別がときに明確でないことも混乱の一因になる。そして正/邪と別に、役に立つ/立たないについて考えておくことには意義のあることがある。しかし、何にとって役に立つ/立たないのか、それがわからなければ、問いに答えようもない。しかしそれがよくわからないのだ。
  それは結局、著者が属していた(属してきた)時代ということなのかもしれない――といって、さほどそれから進んだようにも思えず、その一回り後の私たちもたいしたことはないのだが。まず、かつて絵に画いたような資本家たちがいて(むろん今でもいる)それを敵にまわしてということであったのが、そう簡単なことでもなくなり、一様でないとわかると、「総資本」といったことを言う。さらにかつては資本制維持の道具としての国家ということであったのが、やはりそう単純ではないということになり、国家の(相対的な)自律性を言う。そういった具合に議論は動いてきた。そしてそれはたしかに認識における進歩ではあったのだろう。しかしやはりそれでも、大雑把すきてわからない。
  そして、その大雑把なものが並列させられる。そしてみんな得をしているという話になっている。多くあるなら、多くを並べることがわるいわけではない――文庫本の「著者解題」(上野[2009])では、家父長制と資本制の二元論を示して一元論者・統一論者から批判を受けた著者はさらなる多元論を、と言っている。分けるべきは分け、並べるべきは並べるのがよい。ただ問題は、その一つひとつで何を意味するのか示すのかがわからない、そして各々について言われていることがわからないことにある。
  わからないと書いてばかりいても仕方がない。では、私ならどう言うのか。その一部を書いて二〇〇三年の『思想』に掲載された「家族・性・資本――素描」(立岩[2003])を今度の本の第1章に置いた。これをともかく書いたので、一つ本を出してもよかろうと思ったというところもある。そこで、私は、ここまで書き口からは意外に思われるかもしれないが、家族・性分業(のすくなくともある形態)が資本制――と言ってもわからないと言いつつこの語を使っておく――にとって「正機能的」であると言えることを述べている。その意味では、私はむしろ、やはり雑把な言葉を使い続けるなら、やはり意外に思われるかもしれないのだが、「一元論者」「統一論者」に近いことになる。なぜそういうことになるのか。常識的に考えれば、性別分業や女性差別が「生産」に対して正機能的であると言うことの方がむしろ難しいことの方が容易にわかる。
  まず、男も女も、外でも内でも働かせた方が多くの労働が調達できるだろう。また、女性の労働を安く買っていると言うのだが、(広い意味での)労働能力が等しく同じ労働が得られるなら――性別と関係なく――安い方が買われるから、高かったものは安くなり、高いのと安いのの間に収まるはずだ。単純にすれば、本来男と女が4・4払われるべきであるのに、4・2になっていて、2の分雇い主が掠め取っているという話がなされるわけだが、さきの条件のもとでは例えば3・3になるはずで、4・2と3・3と、雇い主側の支払いは同じである。ならば男性労働者が得をしていることは言えても、雇う側に特別の利益はないではないか(立岩[1994b])。
  国家――についての考察が薄いことを上野は後に反省するのだが(九〇年の本の文庫版の「著者解題」他)――にとってはどうか。しかしここでもその国家がどんなもので、何を望んでいるのかわからないと、何も言えない。ただ生産の増大を望んでいるのであれば、子どもはどこかでまとめて育てることにして「総動員」の方がよいかもしれない(し、実際そんなこともあった)。そういう小学生が発するような素朴な疑問に、言いたいのはそういうことではないと言いたい人たちは、きちんと答えねばならないということだ。
 そんなこともふまえた上で、「正機能的」であることを私はどう言ったみたか。これも読んでいただくしかないのたが、ここでは、一つだけそこでは主題的には論じていないことを付記しておく。
  まず、資本制と市場とは同じものではない(この辺りについても自省の言を上野は後に記している)。当たり前なのでこれ以上言わない。前者、市場には外部があることについて。もちろん事実、外部は存在している。そんなことは誰でも知っている。
  それと別に、外部が必要なのかという問いは成立する。むろん資源やそれを加工し生産する人はいる(存在し、また必要である)。そして資源の部分について、それを与えられた見返りに私たちは支払ってりしていない(し、たいがいしようもない)から、その部分は自然からの「贈与」ということになる――そのことを「エコロジー」を特集した本誌十一月号にも登場する中沢新一は言い、それはその通りだとその本の書評とも言えない短文(立岩[2011])で述べた。それも自明だからとりたてて言うまでもない。問いは、人と人との間で、普通、市場でなされているような財のやり取り以外のものが必要かという問いになる。市場が交換の世界・場であるとすれば――定義によっては「慈善」もまた交換だと言いうる☆04が、そういう議論は略そう――交換に供するものを持っていない人は死ぬ。そして子どもはもっていない。(他方老人は蓄えをもっているかもしれない。)ただ、そんな子どもの場合であっても、「交換」をまったく想定できないわけではない。例えば(親が(代理)契約の主体になれるかという問題はあるが)前払いをしてもらって、後で(本人が)支払うことはできる。どれだけ生きるか不確定だし、何が起こるかもわからないが、ならば保険会社があればよい。こうして時間・不確定性の問題を解決できるなら、生産されるものは消費されるという意味でその出入りの帳じりはおおまかにはあっているのだから、(将来の、また過去の)生産者は、死ぬまで生きていけることになる。
  その上で、実際には、家族がそのような機能を果たしてきた(時期かあった)――つまりまず子を育て、後でその人を働き手、稼ぎ手、扶養者としてあてにするといったことがあった。そして国家もまた、そうした金貸しのような、保険会社のような仕事をすることができるし、子ども(あるいはその親)に前金を渡して後で子から回収するといった仕事は、民間よりも公的な機関の方がやりやすいかもしれない。しかし、以上に述べただけのことに限れば、市場は外部を必要としないとも言える。そもそも市場は場であって、何かの省略語として「市場にとって」と言っているのか、なら何を略しているのかが、あるいはその場自体の存続/消滅のことを言ってのか、わからないと何のことかわからない。ただ、以上のような具合に市場(経済)が存在・存続するということはありえなくはないし、またそれでかまわない、よいという人(たち)もいる。
 しかし、その当人が稼げなければ、その当人はここで生きていけない。少なくとも生きにくい。例えば生まれながら働けないことがわかったら、前払いも受け取れず死ぬ。そのような人はそう多くはないだろう。ただ、死ぬことはないとしても、(自分も含め他人も含め)人が欲するものの生産――もろんケアや家事や排泄や摂食や呼吸等々の一切を含む――について、人々のできる/できないの差異は現に存在し、様々な仕組みのもとで拡大しもするだろう。それでも、一定の人たちはいなくなりながら、社会は存続していくかもしれない。それだけの意味では、外部はいらない。ただ、その仕組みでは(十分に)生きていけない人々を――なんらかの打算があるなら、その打算から――放置することをしないなら、あるいはそこに生じる格差をそのまま是認しないから――これは一つの立場である――別の仕組みがいることになる。
  そして、より多くの労働者がいることを労働を需要する側が、そして「社会」が常に必要としているという前提を疑ってみることだ。たしかに供給が多ければ安く買うことはできるかもしれない。しかし、では余った者はどうするかということになる。最初から就職できない人は失業保険の掛け金も払えない。それなら死ねばよいということにはしないことにしよう。あるいは、そこには景気の良し悪しもあるから人手がいる時に備えて一定の余剰を抱えていた方がよいという計算も働くかもしれない。

  「こうして、3)分配の機能がいくらか存在し生存を維持しながら、1)格差が維持・拡大され、2)生産を拡大する方向に事態を動かすような装置があった場合、もう少し正確には、他と比べて――これは何と比較するかが問題になるということである――このような方向に向かう度合いの大きい装置があったときに、それは、一時期よく使われてきた言い方を使えば、資本制に奉仕する装置だということになる。」(立岩[2003→2011])

  人をたくさん働かせようというより――そういう場面もありながら――むしろ余っている人間も――使う時には使えるように――それなりに抱えつつ、最低限の生活をいくらかは可能にし、不満をそこそこのところに収め、しかし、格差を少なくする方には行かないといったあたりを狙うなら、この社会における家族は、いくつかの性分業の形態は、あるいは家族を第一においてそれでもこぼれる部分を政府が救うという仕組みは、使えるということだ。それが資本(制)や国家にとっての益である、最もよい手であるかどうかは別としてまずまず受け入れてもよい、と言うこともできよう。すると、専業主婦という存在も、普通に割り振っていけば人が余る状況下で、全世帯のある部分に一人ずつ配分すれば、その人も暮らすことはでき、そしてさらにその人は様々に有益なことも――その人たちのある部分は、真面目なものだから、あるいは真面目にさせられてしまって、考え出して――できる、そんな存在である(あった)と見ることもできる。
  市場でも(時間と不確定性の問題を処理できれば)まったく不可能ではなく、家族でも――その成員構成や財力その他によっておおいにむらは生ずるものの――可能であり、そして国家もまた一定の役割を果たすことができるし果たしてきたこと――交換、相互扶助、共助…という言葉・枠組みで言えること――がある。そしてその中でも、家族・性分業を組み込んだ装置が先に引用したような機能をかなりうまく果たすことは言える。私はそのように捉える(α)。
  その上で、このようにして維持される仕組みαは、一人ひとりが、どこにどんな状態でどんな力能をもって生まれ生きることになろうと暮らしていける状態、その状態を支える仕組みβとは異なる。αではよくないと言い、別のものがよいと言う人(の一部)は、一定以上の生活(や生活のためのケア)が得られることが正当であるとし、それを得られないのは不当であり、得られない人は不当な不利益を得ており、そのための負担をせずにすませている人は不当な利益を得ている、負担についてもそこに大きな不均衡があるならそれは不当である、負担せずにすませている人は不当な利益を得ているという立場βをとることになる。次に、このことは何に対して何をもたらすことになるだろうか。またこの立場から見た時、誰がどのような(不当な)利益/不利益を得ているということになるのか。そして、ではどうするのか。このような順序で考えていけばよい。私はそう思ってきた。
 まずこの――大きくは――二つのはっきりとした違いをはっきりと確認しておくことである。そして、私は後者を肯定するから、前者を批判・否定する。そのことを書いてきた。

☆04 上野は大学院生の時、(社会学における)交換理論をやってみようかと思うというようなことを吉田民人に語り、吉田――上野とも私とも「学風」の異なる方であったが、「所有」という語を著書(吉田[1991])の題にもってきた数少ない(というかほとんどいない)社会学者の一人だった――から、それはやめた方がよいと言われた(そしてやめた)と、千田編[2011]に収録された文章のどこかに書かれていたと思う。よい助言であったと思う。」

 ――以上――

補・吉田民人

  引用に記されているように、そこに問われるべきだと思った問いについて、私は、ふるいものでは「労働の購入者は性差別から利益を得ていない」(1994年)、そのあと10年ぐらいして書いたものでは「家族・性・資本――素描」(2003年)で考えたことを書いて、それが『家族性分業論前哨』に収録されている。
  ついでに、その註にある吉田民人について。その人は、上野の大学院生(京都大学)の時の指導教員で、その後、東京大学に移った。私にとっては、学部(文学部社会学科)のときの指導教員ということなる(大学院では別の人――山本泰――だった)。私は、ゼミで昼飯食べたり、予備校の模試の採点したりしていて、たんに行儀のわるい学生だった。吉田さんは(じつは気にしたらしいという話を後で某先輩から聞いたが)、そういうことに寛容な先生だった。(大学院のゼミでもやはり模試の採点していたという話は、畏友佐藤俊樹氏の著書の「あとがき」に、全然本の中身と関係なく出てくる。)。その罪ほろぼしというのではなく――金もなかったし、報告は耳で聞いて発言は口でして採点は手ですればいいんだし、大学院の博士課程からは『生の技法』のために手間もかかっていたし、――『私的所有論』第1章の註にその人の名が出てくるので、『私的所有論 第2版』から引用しておく。わかっちゃいたことだが、とても多くの場合、本の隅々まで読まれることなどまずないことを、しみじみ と思うので。【 】内は第2版に書き加えた場所。

「◇11 このようなわけだから、所有の問題は、経済学の一部分での、一部分についての論議に限られてきた。【これでも言い過ぎなかもしれない。多くの場合、これが重要な主題であるということに気づかれていないように思える。】
  社会学者による例外的な作業として、吉田民人【(1931〜2009)】[1971][1978][1981](後に吉田[1991]に収録)等がある。基本的には、マルクス(主義)の所有論、その一九六〇年代から一九七〇年代の平田清明【(1922〜1995、cf.赤間道夫[2008])】らの解釈を受け、それを分節化し、組み直し、組み合わせ、現実に可能な選択肢を探ろうとするものである。ある意味ではかなり限定された範囲を問題にする本書では、吉田のこれらの業績を援用することはない。けれども、自らの前提をはっきりさせる、論理的な可能性の全体を描く、現実的な可能性について吟味するという姿勢を貫こうとする真面目さが、この主題に限らず、他の誰のどれだけの仕事にあっただろうか。またこの主題がどれだけ――今述べた意味において――真面目に追究されただろうか。私は、本書の主題について――そこでは組み合わせの構想力に限っては、それほど必要とはされないはずだが――、できる限り、こうした姿勢を継承したいと思う。」(pp.60-61)」


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■生活書院の本×3

◆立岩真也・村上潔 2011/12/05 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya]
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 [amazon][kinokuniya]
◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 2012/12/25 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 1200+ [amazon][kinokuniya]

『家族性分業論前哨』表紙    『私的所有論  第2版』表紙    『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙