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【Web連載】


上野千鶴子『家父長制と資本制』がわからなかったので 連載:予告&補遺・17

立岩 真也  (2013/07/17)
101112131415・・16……


「わからなかったこと、なされていないと思うこと」

  『現代思想』39-17(2011-12臨時増刊)が、「臨時増刊号 総特集:上野千鶴子」だった。(今調べてみたらこの号まだ購入できるようだ。)私も原稿を書かせていただくことになって、「わからなかったこと、なされていないと思うこと」という題の文章を書いた。
  そしてほぼ同じ時期、『家族性分業論前哨』を刊行してもらった。その臨時増刊号にあわせてというわけではなかったのだが、この時期に出してもらおうとは思った。
  というのもその時、上野さんは、定年まですこし残して東京大学を辞めていて、2012年の4月から私が今務めているところ(立命館大学大学院先端総合学術研究科)に、教授会等々の仕事は免除、したがって待遇もそれなりの…という条件で――というふうに私はご当人にお伝えした――やってくることになっていた(いま、やってきている)。それで同年、2011年12月23日に「上野千鶴子特別招聘教授着任記念学術講演・シンポジウム企画」という催しがあって、私の立ち位置というか示しておくためにも、それにはこの本をまにあわせようと思ったのだ。上野さんの講演は、『ケアの社会学』に書かれたことをさらにわかりやすくといったもので、その後、シンポジウムがあって私も登壇させてもらった。「分からず解かれていない部分が多いと思う」というような話をしたかったし、した。ただ、どうせ話す時間が限られていることはわかっていたから、そのときにまに合わせようと思って作っていただいたのだ。その会場では予想外にひじょうに売れず、がっくり来たのだが――このごろそういうことが多い――、 そういうことでさいさきはわるかったのだが、それはともかく本は出ていて、今も出ている。よい本だと考えている。ので、何度でも、宣伝をしようと思う。
  それでまず、『現代思想』のその臨時増刊号に書いた文章の冒頭部を以下。

 ……以下引用(〔〕内は今回加えた補記)……

途中で、過去のものを集めた本を出したこと

  こんど、村上潔との共著で『家族性分業論前哨』という本を出してもらった(立岩・村上[2011]、十一月末刊行)。私の部分はまったく新たに書いたものではない。一九九〇年代の半ば辺りに書いて、ずっとそのままにしていた文章他を再録したものだ。そこに収録されている最も長い文章が、『家父長制と資本制』(上野[1990→2009])に書いてあることがわからなかったのでということもあって一九九四年に書いた「妻の家事労働に夫はいくら払うか――家族/市場/国家の境界を考察するための準備」(立岩[1994a])。それを第2章に置いた。村上は、第二部で、関連する本を九十冊紹介してくれている★01
  今紹介したその第2章になったものなど、ほぼ人目にふれない「紀要」に掲載されたりしたものなのだが、過去にはHPに掲載したこともあり、読もうと思えば読めるものではあった。ただ、やたらと長く(四〇〇字詰で二二〇枚ほど)、ほとんど読んでもらっていないはずだ。その後、そうした主題に関わる文章をほぼ書かず、私がものを書いていることを知っている人からも、そんなことについて書いたことのある人だと思われていなかったこともあったかもしれない。
  ただ、こうしてずっと前に書いてからその後も含め、なにか話がまとまったようには思われなかった。たしかにそこそこに難しい問題ではあるだろうが、なんともならないような難題ではないと思った。そこで、「家族・性・市場」という連載名を付けてしまった続きものが二〇〇五年一〇月号から本誌〔『現代思想』〕で始まって、十回ほどはその主題で書いていたのだが、その後、現在に至るまで書いていることはまったく違った中身になってしまっていて――そのいくらかの部分は本にしていただいた★02――、まったくその名は実状を示していない。それはそれとしていずれまとめることにして、そのいずれがいつのことになるのか見当がつかないということもあり、これまでのものを本にしておくとよいと考えて、出してもらった。
  ことは簡単ではない、だから長くもなる。しかし一方では、かつては労働とみなされず、不可視化されていたものが労働であると認識されるようになった――本当だろうか?――とか、なんだか妙に簡単な単純なことにされてしまっている。同時に、家族・性分業と「経済」との関係はいかなことになっているのか、結局よくわからなくなったままになっていると思う(上野自身の文章としては上野[2003])。それでなのかどうなのか、研究・書きものも、種々に、様々に、個別のところに行っている、あるいはあまりまとまったものを見かけないという感じがある。それ(だけで)はまずいのではないかと思ってきた。

わからなかったこと・1

  なんだかわからない――と私には思われた――のに比して、同じ人が書いた『ケアの社会学』(上野[2011])はわかりやすい。理由は簡単である。まずケアを得ることは「権利」であると言ってしまう★03。ならば「義務」を果たさねばならないことになる。その権利・義務を言葉通りに、いくらかでも強い意味で受け取れば、その役を担うのは――強制力をもって義務を課せる(例えば義務としての税を徴収できる)のは、今のところ国家だから――国家ということになる。そして、その金を使って、実際のその仕事の担い手として活動するのは「非営利」組織が(相対的に)ふさわしい、おしまい、となる。
  ただ、これはずっと言われてきたことであり、この筋だけならとてもわかりやすい話である。私もそれを――いくらか整理しつつ、またそこに現れてくる論点をいくらか検討しながら――反復してきた。ただ、加えて言われていることについて、言われていないがもっと考えた方がよいと思うことについては後に記す。
  しかし『家父長制と資本制』はわからない。なぜか? それは――『ケアの社会学』の場合と異なり――誰が、そしてどんな理由で、どれだけそれを担うか、また担い手が現にいる時、それに関わる負担を誰が、やはりどんな理由で、どれだけ――例えば支払いという形で――負うべきであるかを示さなかったからである。
  それを示すことは、同時に、ある体制のもとで誰が(不当に)損をしているのかを示すということでもある。これはたんなる事実問題ではない。現在の状態にある人はよりよい状態と比べれば常にそれよりは損をしているとは言える。そのよりよい状態であるべきであると言えなければ、今の状態が不当に損失を被った状態であるとは言えない。規範的な議論が組み込まれていなければならない――そしてこのことは、事実、よしとされるもの・基準が歴史的に変動していくこと(このことを上野はよく言う)と矛盾するものではない。家事労働そのものに対して払われていないのは事実だ。しかしその事実は、(江原由美子が指摘したことがあるが)支払われるべきであることをそのまま意味しない。この言葉が有意味であるためには、不当な損失であると言うためには、しかじかであるべきであると言った上で、それと比較してしかじかが失われていると言わねばならない。誰が、なぜ、どれだけ払うか(そして/あるいは行なうか)という問いに答えるべきである。そうした仕事をいくらかでもしようとした作業の結果の一部が、今度の本の第2章にしたさきの文章になる。
  そうしていくらかやってみたら話は細かくなり、長くなってしまった。それでわかったことはその冗長な文章を読んでいただく以外にない。ここでは、あの上野の本や他の(幾人かの人の)本を読んだら誰もが気になると思うことを幾つか並べてみる――気になったので考え出したのでもあり、考え出したらますます不思議に思えたのでもある。
  まず、損をしているのは――記述は一つに定まっていないのだが、基本的には――女性全般だとされる。そしてまず払うべきは(そして払わないで得をしているのは)男性だと(も)される。ここも必ずしも判然としないのだが、とくに前半にはそう読むしかない文章がある。払うと男が払い切れないほどになると書いてある。
  だがまず、夫の「再生産」のためにどれだけがかかっているだろうか。ここで(妻子もちと同じく)働いている単身の(独身の、あるいは単身赴任の…)男性のことを考えてもよい。専業主婦という一時期・一部の存在が作り出したとも言えるひどく丁寧な仕事――例えば梅棹忠夫がこのことについて先駆的な文章を書いており、それを上野は肯定的に紹介している(私もたしかに肯定されてよいと思う)のだが、それは上野の「理論篇」で書かれていることとうまく接合しない――の手間をそのまま受け入れたとしても、たいしたことはないのではないか。しかし――とその問いには答えられまま、話は別のところに行き、子どものこと、育児はどうかと言われるかもしれない(他方、高齢者の介助・介護の話はあまりその本には出て来ず、そのことの偏りを後に上野は自ら反省することになる)。たしかにこの育児の分を加えればかなりの時間になる。だがその全体について――ここでは夫が問題になっているので夫が――支払うということになるのだろうか。例えば(経済的な負担も含めて)半々ということにならないか。すると、すくなくとも家事を専業にしている人たちについて、その人は――今まで事実上得たものをいったんなしにして、家事に相応する分を代わりに得ることになるのだが――どれだけが得られるのか。やはりそうたいしたことはないのではないか。
  以上は、他方に家事と他の仕事と合わせれば男よりも多くの仕事をしている人たちがたくさんいることをもちろん否定するものではない。むしろ、すくなくともこの二つが分けられていないことが素朴に不思議なことに思われる。そして一方で男並みに外で働いてその上で家事をともかくもこなしている兼業主婦の家事労働の時間は主婦専業の人より当然に短いのだが、(架空のことであるとしても、なされるべきであるとされる)支払いは、その時間に応じて、例えば専業主婦は例えば二倍とか三倍とか得られるということになるのか。これも不思議に思える。



★01 この本は電子書籍としても刊行するつもりでいる。その場合には、そこに紹介される本について紹介するHP上のページに行けるようにする。(購入の手続き等については本書の題名で検索していただきたい。)
★02 『税を直す』(立岩・村上・橋口[2008])、『ベーシックインカム』(立岩・齊藤[2009])。他に、青土社の理解を得て、数回分を『唯の生』(立岩[2009])の第3章「有限でもあるから控えることについて――その時代に起こったこと」とさせてもらった。ただ言い訳をさせてもらえば、いずれも始めたはずの話と関係なさそうだが、いずれも実際には深い関係がある。本稿でも少しそのことにふれる。
★03 「退出する権利」もあるとされる。言おうとすることはわかる。私の場合には、実行の行為を行なう義務まではないが、義務全般から逃れられるわけではない、その行為を実際に行なう人の生活を支える等のための拠出の義務はあると言うことになる。そしてもっと強い、「退出する権利はない」という主張も、それなりに理に適ったものとして、ありうる。本稿の最後に紹介する近刊の書籍ではこのことも論じられる。
 なお、上野によれば「当事者主権」という語は私の文章に出てくるのが初出だそうで(上野[2011:67])――探してみたら、たしかに立岩[1995]の冒頭で一箇所だけだが使われている。ちなみに、出版社からわざわざ連絡をいただいたのだが、ここには誤記がある(そしてその訂正連絡にもすこし誤記があった)。上野の本では立岩[1990a]となっているが、そこにはこの語はない。その文章が収録されている安積他[1990]全体にもどうやらこの語はない。増補・改訂版(安積他[1995])所収で、初版の第8章(立岩[1990b])を書き換え書き足した立岩[1995]に出てくる(増補改訂版では8章が題名も含め書き換えられ、第9章と[補]は新たに加えられている)。その時とくに何かを意識していたという記憶はない。ただ、その本を改めて見てみると、というかもとの原稿を検索してみると、「当事者」という言葉――そこでは明確に「本人」の意味で用いられている――が初版、他の共著者の章(はすべて初版から変わっていない)にもかなり多く出てくることに、私は初めて気づいた。そして私自身はその後、当事者という言葉が人によって拡張されて使われる――その事に当たる人ということであれば、たしかに様々な人が当事者であるし、当事者でありうる――ために誤解を招きうるし、時にそれでは――例えば利害相反がありうる本人と家族をいっしょにしてしまうことになったりもするから――よくないことも起こってしまうので、あまり使わないようにして、必要な時には「本人」と言うようにしてきた。

 ……引用終わり……

「当事者主権」のあった場所

  その「当事者主権」という言葉があったのは以下の箇所。

  「次に、以上は行為者がどこにいるかということで、例えばお金を払ってやってもらうなら、そのお金を払う人(負担者)がどこにいるのかはまた別である。ボランティアによる介助、家族による介助、有償介助、公的介助保障という分類は四つの領域にひとまず対応しているが、各領域の重なりを見ていない。行為者と負担者だけを考えても、図1のような組み合わせが考えられる☆01。そして、行為者として誰が適切かという議論と、負担者として誰を指定するのかという議論は独立して行うことができるし、また行われるべきである。これは全く単純な事実なのだが、どんなものでもよいからこの主題を論ずる文献にいくつか当たってみるとよい、すると、この単純なことが、非常に多くの場合に踏まえられておらず、結果として議論の混乱を招いていることがわかるはずだ。私達はまずこの単純な事実をよく確認しておこう。   次に、介助者の選定や介助内容に関わる決定を誰が行うかはまた別のことである。その者が誰であるべきかは明らかだ。介助を受ける当人である。これまで、特に医療、福祉の領域では、行政の担当者、施設の職員、専門家達が主導権を握ってきた。だが、自らの暮らし方は自分で決めてよいはずだ。彼らは生活の自律性を獲得しようとする。自らのこと、自らの生活のことは自らが一番よく知っている。こうして、提供(資源供給)側の支配に抗し、当事者主権を主張する。施設では生活の自律性と社会性が確保されない。施設を良い施設にすればよいのか。もちろん施設は今よりもっとずっとましな施設にならなくてはならない。だが施設が良い施設になっても、特別に用意された施設にいなければならないことはない☆02。一九六〇年代末以降、障害者の社会運動は以上を明確に主張し行動してきた。自分のお金でものを買う時には選択できるのに、そうでない時には認められない理由が何かあるか。誰もしたいことが何でもできるわけではないと同じに、その選択に限界はある。ただその限界は他の人と同じであってよい。介助を得、結果として「普通の人」と同じだけ自分なりに生活できればよい。そう言っているだけだ。」(『生の技法 第3版』、第8章、p.356)


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■生活書院の本×3

◆立岩真也・村上潔 2011/12/05 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon][kinokuniya] ※ w02, f04
◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 2012/12/25 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』,生活書院・文庫版,666p. ISBN-10: 486500002X ISBN-13: 978-4865000023 1200+ [amazon][kinokuniya]
◆立命館大学生存学研究センター 編 2013/03/15 『生存学』Vol.6,生活書院,400p. ISBN-10: 4865000100 ISBN-13: 978-4865000108 2200+tax [amazon][kinokuniya] ※

『家族性分業論前哨』表紙    『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 第3版』表紙    『生存学』Vol.6表紙